なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(90)

         使徒言行録による説教(90)、使徒言行録26:1-11、

・今日階段下の看板に掲げてある聖句を御覧になって、階段を上ってこられた方は、「信仰とは、望んでいる

事柄を確信し、見えない事実を確認することです」というヘブル人への手紙11章1節の言葉に気づかれたのでは

ないかと思います。この聖書の言葉には、一言でいえば、信仰は希望であるということが語られているのであ

ります。

・ところで、私たち人間は、希望がないと、本当の意味で生きることができません。時代によっていろいろな

殺人事件がおきます。もう大分まえになりますが、子供が金属バットで父親を殺したり、逆に父親が引きこも

って家族に暴力を振るう子供を耐えかねて殺すという事件が何件も起こったことがありました。最近では、誰

でもいいから殺したかったので人を殺したという殺人事件が、何件か続いて起きています。おそらくそのよう

な殺人事件を起こす人には、将来が見えないのでしょう。つまり希望がないのです。

プリンストン大学教会の牧師を務めたアーネスト・ゴードンは、未だキリストを信じていなかった若い日に、

イギリス軍の将校として第二次世界大戦に参加し、日本軍の捕虜となりました。そしてクワイ河に臨むチュン

カイ収容所で、いわゆる旧日本陸軍によって建設・運行され、タイとビルマミャンマー)を結んだ泰緬鉄道

(たいめんてつどう)建設の強制労働に服し、死の一歩手前の文字通りの極限状況を体験します。その様子が

クワイ河収容所』という本に詳しく記されているそうです。私はこの本をまだ読んでいないのですが、ある

本にその一部が引用されていたのを読みました。少し長くなりますが、希望を失えば人は生きていけないとい

うことを理解するために、その孫引きをさせていただきたいと思います。

・「死ぬのは容易だった。抱いていた願望が裏切られると、生きてゆくことが重荷になった。そしてそれが重

荷になったとき、生きるのを拒絶するのは容易だ。生きることがもたらす苦痛を、死によって避けるのはたや

すいことであった。またそういう時、絶望の哲学を受け容れるのは実に簡単なことである。極限状況の中では

生きるよりも死ぬことのほうが遥かにやさしいからだ。そこで、人びとは『私自身の存在の意味はまったくな

い。人生にはただ虚無のみが存在する。重要なものは何もない。そこで、私は、ただ死ぬまで生きているにす

ぎない』と言うようになる。絶望の哲学は耳にそうささやいていた」。「生きつづけるのは死ぬためである。

それ以外に理由がない。そう考えることにした者たちは、身の周りに黒い覆い布を引きおろし静かに息を引き

とっていった。私はアメーバ赤痢で苦しんでいたある男を知っている。ほかの連中に較べれば彼はまだよいほ

うだった。だが、恢復が充分にできる身体でいながら生きつづけるのは無理だと信じきっていた。そして彼は

そのとおり生きつづけられなかった。また、連合国の、ある海軍大尉は自分の惨めさに耐えかねて、神経が参

ってしまっていた。彼は自殺をこころみた。身体はどこにも故障がなかったのに。ところが自殺が成功しなか

った。しかしこの大尉は間もなく死んだ。病人としてではなく、生きる意志を失った者として、そのことが原

因で死んだ」(斉藤和明訳)(三好明『使徒言行録』より)。

・このような事実を知り、また私どもの日常的な体験からも言えることは、苦難や死に直面して希望を持ち続

けることは、そうたやすいことではないということです。希望を持ち続けるためには、未来があるということ

を信じ続けることが必要です。そして未来があるということを信じ続けるためには、確かな約束が与えていな

ければなりません。

・実は今日の使徒言行録の記事のアグリッパ王の前でのパウロの弁明の中には、この希望のゆえにパウロは自

分が裁判を受けているということが語られているのであります。6節7節を御覧になってください。もう一度そ

こを読んでみます。「今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束

の実現に望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現される

ことを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです」と言わ

れているのです。この同じところを田川健三さんの訳で読んでみますと、ここにはいかに「希望」ということ

が強調されているかがさらによくわかります。

・<そして今、神によって我らの父祖たちに対してなされた約束の希望に関して、私は裁かれてここに立って

おります。我らの十二支族はこの希望へと到着することを希望しつつ、日夜一所懸命に礼拝をなしているので

あります。王様、その希望に関して私はユダヤ人たちによって告発されているのです>。

パウロはこの希望がイエスにおいて実現成就しているし、また必ずするであろうということを信じていまし

た。そしてその希望は死者の復活です。8節にそのことが示されています。「神が死者を復活させてくださると

いうことを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか」。実は、パウロ自身も、「あのナザレ

の人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました」(9節)と言って、自分が熱心なファリサイ人であっ

た過去にはキリスト者を捜し出しては迫害し、「彼らが死刑になるときに、賛成の意志表示をした」(10節)

とも記されています。そういうパウロがダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、イエスを信じる者になっ

たというパウロの回心については、既に使徒言行録の中で2度記されていましたし、このアグリッパ王の弁明

の中でも、3度目になりますが、今日の箇所に続く12節以下にも記るされているのであります。

パウロの死人の復活の希望については、コリントの信徒への手紙一の15章に記されています。コリント教会

の信徒の中のある者が、死者の復活はないと言っていることに対して、死者の復活についてパウロが答えてい

るところです。そのところでパウロは、このように語っています。「死者の復活がなければ、キリストも復活

しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた

がたの信仰も無駄です」(汽灰15:13,14)。そしてパウロは、私たちの復活体についてコリントの信徒へ手

紙一、15章の最後のところでこのように語っているのです。まず「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。

肉と血は神の国を受け継ぐことそnはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」

(50節)と断言しているのです。パウロは生まれながらの人間は、そのままでは全て罪人であって、義人はひ

りもいないと考えていました。そのことをここでは「肉と血は神の国を受け継ぎことはできない」と言って

いるのです。私たちイエスを信じている者も、「肉と血」において生きているわけですから、それ自身では

全ての人と同じように、神の国を受け継ぐことはできないのです。

・そのようにパウロは言った後、続いて、「わたしはあなたがたに神秘を告げます」と言って死者の復活に

ついて語っているのです。「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異な

る状態に変えられます。・・・死者が復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。この朽ち

るべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言

葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげ

はどこにあるのか。』

パウロはこのように、神による死者の復活の確かさについて語っているのです。この朽ちるものが朽ちな

いものに変えられるというのは、罪と死に支配されている私たちの体(肉と血)が霊の体に変えられること、

つまりイエス・キリストに似たものに完全に変えられるということではないでしょうか。私はこの死者の復

活についてのパウロの信仰についてなかなか理解できないでいました。しかし、ある時、これはイエスの復

活に私たちが与かることで、それは、この罪と死に支配されているこの私たちの存在がイエスの似姿に変え

られるという神の約束ではないかと思うようになりました。その約束を信じて今を生きる者は、希望を失う

ことはありません。

パウロは、先ほどの所に続いてこのように語っています。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わ

たしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜った神に、感謝しよう」。この究極的な神の

勝利は、私たちを罪と死から解放するのです。この礼拝でも司会者の祈りの中で繰り返し触れられています、

現代の世界の悲惨な現実における人々の苦しみ、痛み、悲しみ、どうしようもならないような混迷した現実

の世界にあって、私たちがその苦難と死の中でなずべきことをなしつつ生きていくことができるのは、希望

を失っていないからではないでしょうか。「たとえ明日世界が滅んでも、私は今日リンゴの木を植える」と

言ったのは、宗教改革者のルターです。

パウロは死者の復活を語っている第一コリントの15章の最後に、コリントの教会の人々に向かって、そし

てそれはまた私たち一人一人に向かってでもありますが、このような勧めを記しているのであります。「わ

たしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。

主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」

と。

・主の業とは、イエスが人々に仕えたように、私たちも他者の尊厳を大切にし、その尊厳を奪う力に抵抗し

つつ、苦難を負いイエスに従って他者と共に生きることではないでしょうか。その労苦が決して無駄になら

ないとパウロは言うのです。今日の厳しい現実の中で、私たちも自分の置かれた生活の中で、こおイエス

証言の業を、小さくとも生きる限り続けて行きたいと願います。