なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

永眠者記念礼拝説教(Ⅰテサロニケ4:13-18)

    「いつまでも」テサロニケの信徒への手紙一、4:13-18、
                   
                       2018年11月4日(日)永眠者記念礼拝説教


・今年も11月第一日曜日に当たります本日は、教会の暦では聖徒の日(永眠者記念日)であり、多くの教

会と共に私たちの教会でも、永眠者記念礼拝として礼拝を守っています。この講壇の前にある写真の

方々、お名前は週報に記されていますが、この方々を想い起こしつつ、今日の礼拝を守りたいと思いま

す。


・今司会者に読んでいただいたテサロニケの信徒への手紙一は、パウロの書いた手紙で、新約聖書

中最古の文書と言われています。紀元後50年ごろに書かれたものと思われます。イエスが十字架死を遂げ

たのが、紀元後30年ごろと言われていますから、この手紙がパウロによって書かれたのは、イエスの死後

20年前後ということになります。


・このテサロニケの信徒への手紙一を読む限り、少なくともその著者であるパウロは、十字架死を遂げた

エスを、神は復活させて、いまはキリストとして天に挙げられて、神と共におられるが、自分の生きて

いる間に再びこの地上に来られると、再臨のキリストを信じていました。そのことは、先ほど司会者に読

んでいただいた4章15節に、≪主が来られる日まで生き残るわたしたち》と記されていることから分かり

ます。


・ところで、テサロニケの教会の信徒の人々が普段の生活で接していました非キリスト者の一般民衆は大

方、死者のことを思って、嘆き悲しんでいたようです。そのような人々は、死者のことに心が注がれてい

たために、自分が今しなければならないことも、なかなかできないでいたと思われます。死者を嘆き悲し

むことによって、心が過去に縛られて、未来に向かって希望を持って生きていくことができず、暗闇に属

している人のようにしか生きることができなかったのでしょう。当時の一般民衆にとって、死は絶望の悲

しみであったと思われるからです。


・ですから、そのような人々のことを意識して、テサロニケ教会の信徒にパウロはこのように記している

のです。≪兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲し

まないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい》(4:13)と。≪眠りについた人たち》とは、死者を表

す当時の慣用句です。≪希望を持たないほかの人々》は非キリスト者の一般民衆を指していると思われま

す。非キリスト者の民衆を≪希望を持たないほかの人々》と言うのは、そこにキリスト者の驕りを感じま

す。


・ここでパウロが語っていることは、「死んだ信徒は再臨の時にどうなるか」ということです。パウロ

は、イエスが死んで復活されたように、神はイエスを信じて死んだ信徒も復活させてくださると信じてい

ました。≪イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて

眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます》(14節)と記している通りです。


・その後の15節から17節に記されています、イエスの再臨の出来事は、古代人であるパウロの観念の産物

であって、現代のわたしたちにとっては荒唐無稽のように思われるかも知れません。しかし、ここで語ら

れていることは、私たちにとっての最後のこと、終わりであり、目標である究極の未来の世界です。その

未来のイメージを、古代人であるパウロは彼の持っていた宇宙や時間についての考え方、その観念によっ

て、ここで彼のイエスの再臨信仰を表現しているのであります。私たちにとっては荒唐無稽に思われるか

も知れませんが、ここでパウロがイエスの再臨について語ってことに、虚心坦懐に耳を傾けてみたいと思

います。


・≪主の言葉に基づいて次のことを伝えます》と、先ずパウロは述べて、≪主が来られる日まで生き残る

わたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません》と断ってから、イエスの再

臨によって死んだキリスト者と生きているキリスト者がどうなるかを、パウロはこのように語っていま

す。≪すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天

から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わ

たしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。

このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります》(15-17節)。


・このイメージからしますと、イエスの再臨によって終末が到来すると、死んだキリスト者も生きている

キリスト者も、最初に死んだキリスト者が、その次に生きているキリスト者の順に、復活して天に昇り、

いつまでも主と共にいることになるというのです。私たちは死んで復活して初めて、復活体として罪から

解放されて、神のみこころにふさわしい存在に変えられます。そのような神のみ心にふさわしい存在とし

て、いつまでも主と共にいることになると言うのです(汽灰15章参照)。


・これが、「死んだ信徒は再臨の時にどうなるか」という、再臨のキリストの到来としての終末が自分た

ちが生きているうちに来ると信じていたテサロニケの教会の信徒たちの問いに対する、パウロの答です。


・≪ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい》とパウロは語ることによって、「死んだ信徒は

再臨の時にどうなるか」という問いに答えた上で、最後は勧めの言葉で結んでいるのです。


・実は、新共同訳聖書の表題「主は来られる」は、今日の箇所と、それに続く5章1節から11節までが含ま

れています。5章1節以下で記されているのは、「終わりの日はいつくるか」という問題です。


・このことについてもパウロは、終わりの日がいつ来るか、その時と時期については分からない。≪盗人

が夜やってくるように、主の日が来るということを、あなたがた自身がよく知っているからです》(5:

2)と言っていますが、このように語っているのです。≪しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にい

るのではありません。ですから、主の日は、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あな

たがたはすでに光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。…わたした

ちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでい

ましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救

いにあずからせるように定められたのです。主はわたしたちのために死なれましたが、それは、わたした

ちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです》(5:4-10節)。


・ここでも、その上で、≪ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向

上に心がけなさい》(5:11)と、勧めの言葉で終わっているのです。


・先程私は、このテサロニケの信徒への手紙一の4章13節以下でパウロが語っていることは、「私たちに

とっての最後のこと、終わりであり、目標である究極の未来の世界」であると申し上げました。みなさん

はこの世の最後について、そのようなイメージを持っておられるでしょうか。


・1970年代前半だったと思いますが、小松左京の『日本沈没』という小説がでました。これは地震などに

よって日本列島が沈没してしまうという小説です。つまり最後は破局なのです。最近の豪雨や地震による

自然災害の頻発は、日本沈没をあり得るのではという不安を与えています。また、現在も膨大な借金に

よって運営されているこの日本の国の未来は破局するのではないかと心配している人もいるのではないで

しょうか。或は、アメリカの自国主義に連動して、世界の国々が自分の国のことしか考えなくなっていっ

たら、第三次世界大戦が起こらないとも限りません。最後は破局であり、破滅なのでしょうか。


・しかし、パウロは、「私たちにとっての最後のこと、終わりであり、目標である究極の未来の世界」

は、イエスの再臨により、死んだ信徒も、今生きている信徒も、永遠に主と共にいる救済であると語って

いるのです。≪ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけ

なさい》(5:11)と、勧めの言葉を語って、キリスト者として、神の救済に与かっている者として、それ

にふさわしく今を大切に生きなさいと勧めているのです。


・このパウロの、終わりの時であるイエスの再臨と励ましの勧めは、教会の枠組みの中で語られているよ

うに思われます。それに対してヨハネ黙示録の場合は、最後のことが教会の枠組の中ではなく、「新しい

天と新しい地」という文脈の中で語られています。ヨハネ黙示録21章1節以下です。そのところを読ませ

ていただきます。


・《わたしはまた、新しい天と地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更

にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもと

を離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聴いた。「見

よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民になる。神は自ら人と共にいて、その神

となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦

もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」》(21:1-4)。


・私はヨハネ黙示録の終わりのイメージに、おおきな希望を抱く者です。このイメージは新天新地の到来

による、神と人間、人間と人間同士の和解に基づく平和のイメージです。民族や国家や人種の違いによっ

て、人が人と対立抗争するのではなく、すべての者がその違いを踏まえて対等同等な存在として助け合

い、励まし合って生きるというイメージです。


・その意味で、その未来を否定する抑圧的な現実の中で、先週観賞したDVDでも教えられましたように、

「人間の尊厳と正義のための不屈な闘い」に、教会としても、キリスト者個人としても、私たちに与えら

れた課題を通して連なっていきたいと思います。それが終わりから生きることに繋がって行くのではない

でしょうか。