なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙(1)

    ガラテヤの信徒への手紙(1)ガラテヤの信徒への手紙1:1-9、

パウロの時代には、文字で書かれた手紙は、それを受け取った教会の人々によって朗読されましたが、

それを聞く人々は、正にパウロが口頭で語っているように聞いたと言われます。ですから、パウロの手

紙は、書かれた手紙ではありますが、パウロの勧め、乃至は説教でもありました。

・ガラテヤの信徒への手紙は、パウロの宣教活動によって生まれたガラテヤ地方の諸教会に宛てて書かれ

パウロの手紙です。先ほど読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙の1章2節の最後の所に「ガラテヤ

の諸教会へ」と記されていますので、一つの教会ではなく複数の教会であるという事が分かります。ガラ

テヤ地方がどこかということでは、二つの説があります。北ガラテヤ説と南ガラテヤ説ですが、現在では

北ガラテヤ説の方が有力だと考えられているそうです。その場所は当時の小アジア、現在のトルコの中央

北部に当たる場所のようです。

・前回まで説教のテキストにしてきました使徒言行録の16章6節に、「さて、彼らはアジア州で御言葉を語

ることを聖霊から禁じられたので、フィルギア・ガラテヤ地方を通って行った」と記されています。これは

パウロの第二回伝道旅行の途中を記しているところですが、ここに記されています「ガラテヤ地方を通っ

て行った」時に、パウロによって設立されたのがガラテヤの諸教会ではないかと考えられています。

・教会というと、私たちは建物をイメージするのではないでしょうか。ガラテヤの信徒への手紙が書かれた

時には、おそらく家の教会ではなかったかと思われます。信徒のどなたかの家に集まって礼拝が行われてい

たのです。ですから教会は、元々そのような信徒が集まって行われる集会、集まりを意味しました。そのよ

うな信徒の集まりである群れがガラテヤ地方にいくつかあったのでしょう。一つの教会にどのくらいの人数

が集まっていたのかは正確には分かりませんが、家の教会ですから、100人も200人もいたとは思えません。

せいぜい20人から30人くらいではなかったと想像します。そういうガラテヤ地方に生まれたいくつかの家の

教会、集まりで、このガラテヤの信徒への手紙が回覧されて朗読されたのではないかと思います。

パウロがこのガラテヤの信徒への手紙を書いたのには、はっきりとした理由があります。それは、パウロ

が宣べ伝えた福音とは違った福音を、後からガラテヤの諸教会に宣べ伝える人があって、その人々に影響さ

れて、パウロの宣べ伝えた福音を捨てて、その「違った福音」を信じる人々が多くなったということです。

その人々とは、恐らくエルサレム教会から遣わされた人々で、彼らはただイエス・キリストの福音を信じる

だけでなく、ユダヤ教の伝統でもある割礼を受け、律法を守ることも、プラスアルファーとして必要だとす

る信仰なのです。

・6節でパウロはこのように言っています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこ

んなにも早く離れ、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と。この

パウロの言葉には、「キリストの恵みへ招いてくださった方」にしっかりと結びついて、どんなことがあっ

ても、その方から離れないで生きて行ってもらいたいという、パウロの強い願いを読み取ることができます。

つまり、パウロがここで問題にしていることは、私たちがどこに立って、どこに向かって生きるのかという

ことなのです。

・4節でパウロは、「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪い世からわたした

ちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」と言っています。この

ところを本田哲郎さんの訳で読んでみます。本田哲郎さんは、「キリストは、わたしたちが道をふみはずし

ていたゆえに、抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営みからわたしたちを引き起こそうと、ご自分を差し

出してくださいました。これは父である神の御心によることでした」と訳しています。

・この本田さんの訳によれば、キリストは、即ちイエスは、抑圧的なことが幅を利かせているこの世の営み

に埋没して、道をふみはずしている私たちを、そこから引き起こそうとして、ご自分を差し出してくださっ

た、と言っているのです。

・最近川崎の多摩川の土手で、上村涼太くんという13歳の中学生が殺された、大変痛ましい事件が起こり、

私たちは衝撃を受けています。こんな悲惨な事件がなぜ起こったのか。上村涼太君を殺した仲間の少年の心

が荒れ果てていたからということになると思われますが、それは、抑圧的なことが幅を利かせているこの世

の営みへの埋没を許し、私たちが道を踏み外していることの一つの現れではないかと思うのです。

ナチスドイツにおけるヒットラーの600万人に及ぶユダヤ人虐殺に対して、 牧師緊急同盟を組織し、告

白教会の先頭に立って闘い、獄中の人となって、戦後解放され、戦後のドイツの教会の指導者になったマル

チン・ニーメラーという人がいます。彼は、獄中においてだったか、ヒットラーが現れて、なぜ自分に福音

を伝えてくれなかったのかと言ったという夢を見たというのです。そしてナチズムを生み出してしまったの

は、ドイツのキリスト教、つまり自分たちの責任であるということを語ったというのです。

・そういうことからしますと、上村涼太君をこのように殺させてしまったことに対して、イエス・キリスト

の福音の宣教を託されている私たちの責任でもあると言わざるを得ません。

・さて、パウロは、自らを、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死

者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ」と語っています。使徒とは遣わされた者で

す。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、死を命に変えてくださっているその福音によって

立つ者として、その福音をこの世の人々と共有するために、パウロは神から派遣されているというのです。

・そしてこのイエス・キリストの死を命に変える福音を土台にして、人が人と結びつくときに、主イエス

キリストの恵みと平和に私たちは与かることがゆるされているのです。それだからこそ、パウロは自らの福

音宣教によって、一度そのキリストの恵みに与かることが許されたガラテヤの諸教会の信徒たちが、イエス

・キリストの福音にプラスアルファーして割礼や律法の遵守を加えるユダヤ主義者の「ほかの福音」に乗り

換えようとしていることを知って、黙っていられずに、このガラテヤの信徒への手紙を書いたのです。

・「ほかの福音といっても、もうひとつ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キ

リストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(7節)とパウロは言い、続けて「呪い」の言葉を語って

いるのです。「しかし、たとえわたし自身であれ、天使であれ、わたしがあなたがたに告げ知らせたものに

反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前に言っておいたように、今ま

た、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪わ

れるがよい」(8,9節)。

・ここで「呪い」と訳したギリシャ語アナテマは、七十人訳によるヘブライ語ヘーベムの訳語で、神に献げ

られた物(レビ27:28他)を意味する一方、呪い=神の裁きへの委託という意味も帯びる(民21:3;申7:16;

ヨシュ6:17;7:12;士1:17;ゼカ14:11)。

・神の契約に忠実な者には祝福、契約を破る者には呪いが与えられるということは、申命記27-29章に宣言

されている。

パウロが繰り返している「呪われよ!」という宣言は(ロマ9:3;1コリ16:22;ガラ1:8-9)、旧約以来の

神聖法の伝統に遡るのである。他方、呪いということは神の裁きに委ねることを意味しているので、ガラ

1:8-9の呪いの宣言は、5:10後半が「あなた方を扇動している者達で、誰であっても裁きを受けねばならな

い」と述べていることに対応している。

・何故パウロはこのように、福音の真理に反する教えを厳しく批判したのでしょうか。それぞれの違った福

音理解があっていいのではないか。パウロのように、厳格に考えると、違った考えの人々を否定し、独善的

になるのではないかと危惧する人もいるかも知れません。しかし、このことは大切なことであって、何でも

いいということではありません。パウロユダヤ主義的な人々の福音理解を批判し、神の裁きに委ねたのは、

彼らの語っている福音が、イエスの福音とは似て非なるものであったからです。

宗教改革の時代に、ローマ法王を絶対的な権威とし、ある種の功績主義(行為義認主義)にあったローマ

カトリックに対して真っ向から反抗、抵抗したルターは、信仰義認、聖書のみ(恵みのみ)、万人祭司によ

って、福音の真理性を示しました。この宗教改革の原理には、イエス・キリストにおける神の救いの解放性

がよく示されています。「主イエス・キリストの恵みと平和」(3節)は、制度としてのローマカトリック

教会の枠を超えて、全ての人の基盤として解放されたのです。信じる者は誰でもその恵みに与かることがで

きるのです。否人間の側の信仰以前に、福音の恵みは全ての人に注がれているのです。信じる者は、その福

音に立って、全ての人と結び合わされていくのです。そのことを信じるがゆえに、上村涼太くんのような事

件が起こるたびに、私たちの怠慢を反省させられるのです。

・私たちが属する日本基督教団の中には、日本基督教団信仰告白、教憲教規が土俵だと主張する人々が結

構多くいます。私は、土俵は聖書であり、イエスであると思っています。聖書は教え以上に歴史です。イス

ラエルの民も初代教会の人々も、その時代と社会の中で生き様を通して神の救済とイエスの福音に与かった

人々です。私たちも今日の時代と社会の中で、その生き様を通して、イエスの福音の恵みに与かっていきた

いと思います。とすれば、イエスは殺された上村涼太さんの痛みと苦しみを共に担って、今私たちの中にい

らっしゃるのではないでしょうか。東京電力福島第一原発事故により住む場所を失い、被爆の恐れの中に生

きている人々、沖縄で基地に苦しむ人々のその痛みと苦しみを担ってイエスは今いらっしゃるのではないで

しょうか。