なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(4)

   「方向転換」ガラテヤの信徒への手紙1:13-17、2015年10月11日船越教会礼拝説教


・今日は第2日曜日ですので、ガラテヤの信徒への手紙の一節から、御言葉を聞きたいと思います。

・皆さんは、ガラテヤの信徒への手紙とエレミヤ書では、どのようなつながりがあるのか戸惑われるかも

知れません。エレミヤ書の場合、当時の南王国ユダの歴史的な状況が前提となっていて、語られる言葉も

イスラエルの民で、具体的にはユダヤ民族に属する人々です。彼ら・彼女らが神ヤハウエに選ばれた契約

の民として、律法に示されている道をこの歴史の中で生きるということが、テーマとなっています。その

意味で、当時の南王国ユダを取り巻く諸民族・諸国家をも含む世界大の歴史が前提となって、エレミヤ書

の言葉があります。今日私たちにおいて安倍政権のめざす道が、本当に平和と繁栄につながるのかという

問題がありますが、エレミヤも、当時の南王国ユダのめざす道が、イスラエルの民にとって、神の望み給

う平和と繁栄につながるのかという問題と向き合って、その預言が語られているのです。それに対して、

ガラテヤの信徒への手紙は、パウロが設立したガラテヤ教会が、パウロの後からきたユダヤキリスト者

の、パウロの宣べ伝えた「律法から自由な福音」ではなく、「律法と割礼」もなくてはならないという、

パウロとは異なる福音を宣べ伝えた結果、ガラテヤ教会の信徒たちがユダヤキリスト者から影響を受け

て、パウロの語った「律法から自由な福音」を捨てて、ユダヤキリスト者の「異なる福音」を信じるよ

うになってしまったのです。そのことで、パウロはこのガラテヤの信徒への手紙を書いて、自分の宣べ伝

えた「律法から自由な福音」に立ち帰れと説得しているのです。

・表面的にこのエレミヤ書とガラテヤの信徒への手紙を比べてみますと、スケールが違うように感じるか

もしれません。エレミヤの場合はイスラエル民族史を問題にしているのに対して、パウロはガラテヤの教

会を問題にしているわけです。明らかにスケールが違います。しかし、パウロの問題にしているガラテヤ

の教会は、ユダヤ教に代わる新しい宗教としてのキリスト教の教会ではありますが、この教会はパウロ

とっては新しい人間、人類の誕生というように捉えていたのではないかと思われます。パウロの手紙では

ありませんが、エフェソの信徒への手紙の中にこのように言われている所があります。2章14節以下ですが、

<実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意とい

う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分

において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体をして神と和解さ

せ、十字架によって敵意を滅ぼされました>(2:14-16)。ここには、<キリストは、(敵意を持った)双

方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し>と言われています。ここで言われている

<新しい人>とは新しい人類と言い換えてもいいでしょう。そのようなことからしますと、教会は新しい

人類の先取りであると言えるでしょう。そうだとすれば、パウロの言葉もエレミヤの預言と変わらないス

ケールの言葉と言えるのではないでしょうか。

・ところでパウロは、ユダヤキリスト者によるユダヤ教の律法と割礼に拘泥する宣教によって影響を受

けて、パウロの宣べ伝えた律法から自由な福音から脱落していったガラテヤの人々に向かって、1章11節、

12節でこのように語っていました。<兄弟たち、あなたがたにはっきりと言います。わたしが告げ知らせ

た福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたものでも教えられたものでも

なく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです>と。これは、パウロがかつて熱心なユダヤ教

徒として、ダマスコにキリスト教徒迫害のために行った時に、その途上で体験した出来事について記され

たものです。パウロの回心の出来事です。パウロはこの回心の出来事において、直接復活の主イエスと出

会ったというのです。そのことを「イエス・キリストの啓示によって」と、パウロは語っています。イエ

ス・キリストがご自身をパウロに開き示すことによって、パウロイエス・キリストの福音を知らされた

のです。もちろん、パウロキリスト教徒を迫害していた時に、そのキリスト教徒が信じていたイエス

キリストの福音について知ってはいたに違いありません。イエス・キリストの福音がユダヤ教を否定する

と思ったからこそ、パウロはその福音を信じていたキリスト教徒を迫害したのではなかったでしょうか。

ところが、ダマスコ途上で幻の中で主イエスが、「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とパウ

ロに語りかけるのを聞いて、パウロは自らの中で熱心なユダヤ教徒としてのアイデンティティーが崩れて

行くのを体験したのです。

使徒言行録9章のパウロの回心の物語によりますと、パウロは幻の中で、「サイロ、サウロ、なぜ、わた

しを迫害するのか」と語られた復活の主イエスに対して、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけて

います。すると復活の主イエスから答えがあって、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起

きて町に入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる」と言われているのです。その後、パウロ

は地面から起き上がって、目を開けましたが、何も見えず、人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行っ

たというのです。三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかったと言われていて、その後ダマスコで、や

はり幻で主イエスがアナニヤという人物に現れて、パウロを異邦人への宣教者に選んだことを告げ、パウ

ロのもとに遣わします。<アナニヤは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。

「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるよ

うになり、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。すると、たちまち目からうろ

このようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起して洗礼を受け、食事を

して元気を取り戻した」(使9:17-19)というのです。

・先程司会者によんでいただいたガラテヤの信徒への手紙の箇所は、パウロがこの回心の出来事を語ってい

るところです。13節14節では<あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまってい

たかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖から

の伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしてい

ました>と語られています。この箇所に「ユダヤ教」という言葉が2回でてきます。新約聖書の中でユダ

ヤ教という言葉は、ここだけにしか出てきません。この「ユダヤ教」という言葉は、<アレクサンドロス

の征服以来、ヘレニズム諸王朝の支配下においてヘレニズム文化の影響にさらされていたパレスチナ

あって、敬虔なユダヤ人たちのグループがヤハウエの与えた契約に忠実に歩み、父祖たちの伝えた律法の

戒めに従って生活をすることを指す言葉である。従って、それは神の契約と律法を捨てギリシャ風の生活

をすることとは対照的に、律法に忠実な「ユダヤ風の生活をすること」を意味した>(原口)と言われて

います。<召命以前のパウロは同胞たち以上にユダヤ教に長じており、ユダヤ教の柱をなす神の契約と律

法に忠実に歩んでいた>のです。

・<しかし>と言って、パウロユダヤ教徒としての自分が根本的に変えられてしまったことを15節以下

でこのように語っています。<わたしを母の胎内にあるときから選び分け、惠によって召し出してくださ

った神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、

わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒とし

て召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした>

(15-17節)と。

・この「しかし」以前の熱心なユダヤ教徒としてのパウロと、異邦人への使徒として召された以降のパウ

ロとは全く違っていて、両者の間には繋がりはありません。その意味で、パウロはこの自己の召命へ言及

することによって、ユダヤ教と今パウロが宣べ伝えているイエスの福音との接点は何もないということを、

ガラテヤの人たちに語っているのです。そのことによって、「律法と割礼」も必要とするユダヤ人キリス

ト者の宣教は、福音とは言えない別のものであることを論証しようとしているのです。

・本田哲郎さんは「ガラテヤの人々への手紙」(本田さんは、新共同訳聖書のように「ガラテヤの信徒へ

の手紙」ではなく「ガラテヤの人々への手紙」と言っています)について、このように述べています。

・<本書は、「宗教としてのキリスト教」と「福音」を同一視しがちな今日の教会に対する、警告の書と

もなっています。「ユダヤ教」の「律法と割礼」にあくまでも拘泥したユダヤキリスト者たちが、結果

的に福音を骨抜きにしていたように、今日、「宗教としてのキリスト教」と「洗礼」に拘泥しがちなわたし

たちが、同じように、福音による救いと解放の道をあいまいにしていることを反省しなければならないで

しょう>と。(本田『ローマ/ガラテヤの人々への手紙』24頁)

・この本田さんの警告は、日本基督教団における私の戒規免職問題との関わりから言えば、私を戒規免職

にした教団執行部の人たちと教団執行部を支えている信徒・教職の方々にこそ向けられていると言ってよ

いでしょう。けれども、ここで本田さんが指摘している、イエスの「福音による救いと解放の道」をあい

まいにすることは、私たち自身の中にもいつでも起こり得ることです。ですから、この本田さんの警告は、

私たち自身に向けられているものとして受け止めなければならないと思います。

・福音による救いと解放の道とは、本田さんによれば、不当に虐げられた人たちの痛みを共有・共感する

中から、イエスを信頼してその解放をめざして歩みを起すことだ言われます。そのような人々の営みこそ

が、新しい人類の歴史を切り開くのではないでしょうか。