なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(17)

 「自由と愛」ガラテヤの信徒への手紙5章7-15節、2017年2月12日(日)船越教会礼拝説教


・もう50年以上前になりますが、私が21歳の時に、伝道者になる決心をして東京神学大学を受験しまし

た。その試験に行ったときに、最初に礼拝がありました。今でも覚えていますが、その礼拝説教で、説教

者が開口一番、「召命無き者はここを去れ」と言ったのです。確か聖書箇所はエレミヤの召命の記事だっ

たと思います。エレミヤの召命の記事は、エレミヤ書1章にあります。そこには、エレミヤが神によって

預言者として召し出されたとき、エレミヤは最初「自分は若者に過ぎないから」と言って断っています。

それに対して神は、「若者に過ぎないと言ってはならない」と言って、「わたしがあなたを、だれのとこ

ろに/遣わそうとも、行って、/わたしが命じることをすべて語れ。/彼らを恐れるな。/わたしがあな

たと共にいて/必ず救い出す」(エレミヤ書1:6,7)と約束して、エレミヤを万国の預言者として立てたと

いうのです。

・エレミヤが預言者として活動した時期の最後は、南王国ユダがバビロニアによって滅ぼされ、ユダの主

だった人々がバビロニアに捕囚されていったのです。エレミヤはこの激動の時代を預言者として活動した

のです。エレミヤが預言者として活動できたのは、エレミヤの主体的な決断によるというよりも、神がエ

レミヤを預言者として召し出した、神の召命という、ある意味ではエレミヤ自身の中から生まれたものと

いうよりは、エレミヤの外からエレミヤに与えられたある種の強制ではないかと思います。場合によって

は、エレミヤ自身としては逃げ出そうとしても、その都度その都度神がエレミヤを預言者として引きもど

し、人々に神の言葉を語らせたと言えるのです。

・このことは、私たちキリスト者にとっても、信徒であろうと教職であろうと同じではないでしょうか。

今日の船越通信の中で、柄谷行人の『憲法の無意識』のことを書きましたが、柄谷行人は、日本の憲法

私たちが主体的に作ったものではなく、ある種の強制によって与えられたものであるから、主体的に作っ

たものであれば、それを捨てることもできるが、与えられたものであるから私たちが勝手にすてることは

できないのだという主旨のことを言っています。それを「憲法の無意識」と言っているのではないかと思

います。つまり憲法は私たち日本人の無意識の世界に既に刻印されているものなのだと言うのです。

・私の世代は高校生の頃に洗礼を受けた人が結構多くいました。それこそ同学年に10人単位でいました

が、社会人になってからその信仰を捨てたというか、そういう人が結構いるのです。どうしてなのか考え

たことがありますが、それは自分が主体的に決断して、洗礼を受けてキリスト者になったが、状況が変

わって自分が必要としないと思うようになったら、信仰を卒業したということになるのではないかと思う

のです。つまり独り相撲をとったということではないかと思うのです。若い時に入信して、状況が変わっ

たから信仰を捨ててしまう人と、長い間ずっと信仰にこだわってきた人のどちらがよいのかはわかりませ

んが、長い間信仰を持ち続けている人は、独り相撲という事ではなく、他者である神、他者であるイエ

ス・キリストとの関係を捨てることができないのではないでしょうか。

・今日のガラテヤの信徒の手紙5章8節に、「あなたがたを召し出している方」という言葉が出てきます。

パウロはここで、彼が設立したガラテヤの教会に後からやって来て、人が救われるためには、キリストの

福音だけでなく、割礼も律法も必要であるとするユダヤ主義者が語ることに対して、「このような誘い

は、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」(8節)と断言しているのでありま

す。「(あなたがたが)召し出された」とは、ガラテヤの人たちが信仰への召しを受けたということであ

り、キリスト教への入信を指しています。ここで暗黙の前提になっている召しを行う主体は、勿論神であ

ります。

パウロの理解によれば、信仰への召しは自由への召しであり、律法からの自由こそが、福音の真理なの

であります。パウロは論敵たちについてこのように語っています。「彼らは、わたしたちを奴隷にしよう

として、私たちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでし

た。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは片ときもそのような

者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」(ガラ2:4-5)と。

パウロは、キリスト者の生活の本質は自由であるというのです。では何を行ってもよいのでしょうか。

初代教会の信徒たちの中には、自由のはき違えで、放縦な生活を送った人々もいました。コリントの信徒

への手紙一では、「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異

邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」(5:1)

と言われています。それは、自由気儘な振る舞いの中で、自己中心的な欲望に支配され、欲望の奴隷にな

ることに他なりません。

・このような自由のはき違えに対して、パウロは「自由を肉の機会とすることなく、愛を通して互いに仕

え合いなさい」と強調しているのです(ガラ5:13後半)。外的拘束から解放された自由な状態において、

人は自己が価値とすることを自発的に行うのです。キリスト者を支配する内発的動機がアガペー(愛)で

あります。愛は自己の利益よりも共に生きる他者の利益を求めます(汽灰13:4-6を参照)。ですから、

愛の具体的表現形態は「互いに仕え合う」ことになるのです。しかも、ここで用いられているギリシャ

動詞ドゥーリュオー(仕える)は、ドゥーロス(奴隷)という名詞やドゥーレイア(隷属)という名詞と同

根の言葉であり(5:1)、「仕え合う」とは、自己の権利を放棄して他者のために尽くすことに他なりませ

ん(原口尚彰)。

パウロによれば、「律法の全体は、『あなた自身のようにあなたの隣人を愛しなさい』という一言に

よって成就される」(ロマ13:8-9も参照)と言われています。今までガラテヤの信徒への手紙では律法に

ついては否定的な発言でしたが、パウロは倫理的勧告の文脈では肯定的な発言をしているのです。何故で

しょうか? キリストを信じる者たちは、律法の戒めを行おうと努力するのではなく、愛によって働く信

仰によって、結果的に律法に示された神の聖なる意思を成就すると、パウロは考えていたからです。律法

を「成就する」ことは、律法を「行う」ことと同じではありません。また、律法を総括するに当たって、

パウロが神への愛の主題を省略して隣人愛だけに言及するのは、初代教会では例外的なことであります。

パウロにとっては、人が神を愛することよりも、神が人を愛する愛の方が決定的に重要性を持っているの

であります。パウロはローマの信徒への手紙でこのように述べています。「実にキリストは、わたしたち

がまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬも

のはほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたち

がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対

する愛を示されました」(ロマ5:6-8)と。

・そのように語ってきたパウロの語る調子が、15節で急に変わって、厳しい警告の言葉になっています。

「愛によって互いに仕え合」うこと(ガラ5:13)の対極にあるのが、互いに争い、傷つけ合うことであり

ます。罪赦された罪人の集団である教会の中には人間的な争いが生じることは避けられません。パウロ

教会にも信徒間の様々な争いが存在しました。もし、信徒たちが野獣のように「噛み合い、食い合う」と

すれば、そのことはキリストの体である教会の徳を建てることにはならず、相互の滅びにつながると、パ

ウロは言うのであります。

・このように今日のガラテヤの信徒への手紙の箇所、特に13節以下には、神に召し出されて、入信してキ

リスト者になった者が、キリストにある自由と、その自由をもって他者を自分自身のように愛する愛を

もって互いに仕え合うことへと導かれているということが明確に語られているのであります。

・今私たちの時代は新自由主義的な経済による格差の拡大による、勝ち組と負け組とがはっきりしてきて

おり、負け組は切り捨てられていくような傾向が顕著になっています。さらに在日の方々に対するヘイ

ト・スピーチにはじまって、沖縄の辺野古や高江で基地建設反対運動をしている人々に対するヘイト・ス

ピーチに広がってきており、マイノリティーや国家に抵抗する人々が攻撃の対象になっています。そのこ

とは、私たちの日常がそれだけ生きづらくなっていることを表わしていると思われます。毎日生き延びる

ために仕事に追われて汲々としている人々が、辺野古や高江に行って、反対を叫ぶ余裕のある人々を攻撃

したくなる心理は理解できないわけではありません。そのような今この時代において、私たちは「神に召

し出されている」者として、キリストの自由をもって、他者を自分自身のように愛し、互いに仕え合うこ

とへと召されていることを覚えたいと思います。このことは、しかし、私たちが自分の意志でしようとし

てできることではありません。神が霊において私たちに働きかけて下さり、イエス・キリストに倣って、

私たちが生きていくときに、自ずからその方向に私たちが導かれていくのではないでしょうか。

・神が聖霊を私たちに送って下さり、その聖霊の息吹に促されて、キリストにある自由と、その自由を

もって他者を愛し、互いに仕え合う者になさしめてくださいますように。