「ほかの福音はない」ガラテヤの信徒への手紙1:6-9
2015年7月12日(日)船越教会礼拝説教
・私は2009年に新教出版社の小林望さんに勧められて『自立と共生の場としての教会』という本を出しまし
た。その私の本について、「福音と世界」という雑誌で釜ヶ崎の本田哲郎さんが講評を書いてくださいまし
た。本田さんの講評は全体的に好意的なものでしたが、一つだけ批判された点があります。それは、この
『自立と共生の場としての教会』の中で私が聖餐のことについて書いたところです。私は聖餐の陪餐を、洗
礼を受けた人だけに限るか、洗礼を受けていない人でも希望すれば与かることができるか、つまり「閉じら
れた聖餐」か「開かれた聖餐」かという二者択一ではなく、どちらでもあり得るという意味で、金子みずす
の「みんなちがってみんないい」や「バラバラの一緒」というコピーを肯定的に使って書きました。そのこ
とについて、本田哲郎さんは、それは違うのではないかということでした。最も小さくされた人と共に生き
たイエスからすれば、「みんなちかってみんないい」とは言えないということではないかと思います。この
「みんなちがってみんないい」だと、抑圧被抑圧、差別被差別の人間の関係を容認してしまうことになるか
らです。本田哲郎さんは、釜ヶ崎の現場での働きから、「みんなちがってみんないい」という言い方の矛盾
を鋭く見抜いたのではないかと思います。実際私が紅葉坂教会において聖餐を、洗礼を受けていない人にも
希望すれば与かることのできる「開かれた」聖餐にしたのは、「開かれた」聖餐に真理性を見出したからで
あります。どちらも成り立つなら、今まで通りでよかったわけですが、それを変えざるを得なかったという
ことは、紅葉坂教会にとっては、今までの「閉じられた」聖餐ではやっていけないということがあったから
です。
・この経験から私は、聖書の真理は「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」という排他的な真理である
ということを、改めて考えさせられました。先ほど司会者に読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙1章
6節から9節までには、このイエス・キリストの福音の排他性の問題が、パウロによって語られているのであ
ります。まずこのパウロの言葉が語られたガラテヤの教会の状況について想い起しておきたいと思います。
・ご存知の方も多いと思いますが、ガラテヤの教会(複数、諸教会)は、パウロの伝道の働きによって、す
なわちパウロの第2回伝道旅行の時に設立した教会です。おそらくガラテヤの教会のメンバーは非ユダヤ人、
つまり異邦人のメンバーが中心であったと思われます。非ユダヤ人であるガラテヤの教会の中心的なメンバ
ーは、ユダヤ人でありませんでしたので、割礼は受けていませんでした。またユダヤ人が厳格に守っていた、
食べてはならない食物既定のような律法も、彼ら・彼女らは守っていませんでした。パウロは、そのような
ガラテヤ教会の人々に最初に福音を宣べ伝えた時に、割礼からも律法からも自由な福音を宣べ伝え、ガラテ
ヤの教会の人々もそのような律法から自由なパウロの福音を聞いて信じたのであります。
・パウロが宣べ伝えた福音は、「十字架につけられてキリスト」でした(汽灰1:23)。コリントの信徒へ
の手紙一でパウロは、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリス
ト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(2:2)と書いていますので、おそらくガラテヤの教会
の人々にも、パウロはこの「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えたと考えられます。パウロは、「十
字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(汽
リ1:18)と書いていますので、十字架につけられたキリストに福音の真髄を見出していたことが分かります。
・ところが、その後ガラテヤの教会には、おそらくエルサレム教会から来たと思われますユダヤ主義的な福
音の宣教者がやってきて、その影響を受けて、ガラテヤの教会の人々が、割礼を受け、律法を守らなければ、
キリストの救いに与かることはできないと考えるようになってしまったのでしょう。そのようなガラテヤの
教会の人々のことを知って、パウロはこのガラテヤの信徒への手紙を書いたと考えられます。
・手紙には、パウロの当時にもある種の型があって、最初の挨拶の後には「神への感謝の祈り」が来るのが
一般的だったようです。例えばパウロが書いたローマの信徒への手紙を見ますと、挨拶の後に、「まず初め
に、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてあたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全
世界に言い伝えられているからです。・・・」(ローマ1:8)と記されています。ところが、ガラテヤの信徒
への手紙では、挨拶のすぐ後が今日の箇所になっているのです。この箇所では、<神への感謝の祈りを飛ば
して単刀直入に、ガラテヤの人たちが本来の福音から離れて「異なる福音」へ走っていることへの驚きと非
難と呪いの言葉が述べられ>ているのであります。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたが
たがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」
(6節)と、パウロは言っています。制度化している現在の私たちの教会にはありませんが、パウロの時代
の教会では、福音を語る賜物をもった宣教者が自由にやってきて人々に福音を説いて去って行ったようです
。ユダヤ主義的な宣教者がガラテヤの教会にやってきて語ったのは、パウロの語った十字架にかかったキリ
ストの福音を根本から覆してしまう福音でした。ですからパウロは、<ほかの福音といっても、もう一つ別
の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎな
いのです>(7節)と言っています。
・パウロにとって、かつて自分自身がファリサイ人だった時に大切にしていた割礼と律法の束縛から自由に
してくれたのは、十字架につけられたキリストでした。キリスト者を迫害するために道を急いでいたダマス
コへの途上で、幻の中で「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」という復活の主イエスと出会って、
パウロは回心してキリスト者になったのです。ユダヤ教徒であったかつてのパウロは、割礼を受け律法を厳
格に守ることによって命に至ることが出来ると信じていたに違いありません。ところが、そのようなユダヤ
教徒としてのパウロの熱意が、キリスト者を牢屋にぶち込み、迫害して他者を苦しめ、命を奪うことになっ
ていることの矛盾を、パウロは主イエスに出会うまでは分かりませんでした。自分が正しいと信じていたか
らです。しかし、恐ろしいことですが、正義を振りかざして人を殺すということがあり得るのです。自分を
相対化していませんと、自分を絶対化して、他を認めないという過ちに陥るのです。パウロは、割礼と律法
の遵守による義というユダヤ教の道ではなく、十字架につけられたキリストを信じる信仰による義という福
音の道にこそ、すべての人が命を得ることのできる道であることを、復活の主イエスとの出会いによって知
らされたのであります。その道はパウロにとっては、私たちが命に至る唯一の道でした。
・それ故に、パウロが宣べ伝えたその福音を信じて共に歩み始めていたガラテヤの教会の人々が、彼の後か
らやってきたユダヤ主義者的宣教者の割礼も律法もという福音の宣教によって惑わされて、そちらの方に鞍
替えしてしまったことを知って、ユダヤ主義者の福音は福音でも何でもない。むしろキリストの福音を覆そ
うとしているにすぎないのだと、ここで言っているのです。真理はあれもこれもではなく、ただ一つである
と、パウロは言っているのです。その真理を覆すとするならば、<たとえ、わたし自身であれ、天使であれ、
わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよ。
わたしが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反
する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい>(8,9節)と、パウロは語っているのです。<呪わ
れよ>とはたいへん恐ろしい言葉ですが、パウロは敢えてこの言葉を使うことによって、キリストの福音こ
そがただ一つの真理であることを強調しているのだと思います。