「欺き」エレミヤ書5章1-14節、2015年7月19日(日)船越教会礼拝説教
・先ほど司会者に読んでいただいたエレミヤ書5章1節に<エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟がよい。
/広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。/いれば、わたしはエルサレム
を赦そう。>というエレミヤの預言の一節がありました。これは、預言者エレミヤに与えられた神の言葉で
す。神がエレミヤにこのように語ったというのです。
・この言葉から、私たちは創世記18章の後半に記されていますアブラハムの物語を思い起こすのではないで
しょうか。ソドム滅亡を神がアブラハムに語った時に、アブラハムが執拗に神に食い下がって、ソドムに10
人の正しい人がいれば、ソドムの町を滅ぼさないと、神がアブラハムに約束したという物語です。
・このアブラハムの物語では、最初アブラハムは神にこのように言います。<「まことにあなたは、正しい
者と悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい人が50人いるとしても、それでも滅ぼし、その
50人の正しい者のために、町をお許しにはならないのですか。正しい者と悪い者と同じ目に遭わせるよう
なことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行わ
れるべきではありませんか。」>(18:22-25)と。すると神はアブラハムに言われます。<「もしソドムの
町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」>と。そしてアブラハムが神
に45人だったら、40人だったら、30人だったら、20人だったら、と少しずつ人数を減らして、最後
に<「・・・もしかすると、10人しかいないかも知れません。」>(18:32)と言います。すると神は<
「その10人のためにわたしは滅ぼさない」>(18:32)と言われ、このアブラハム物語では、<主はアブ
ラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。>(18:33)と言われて、
終わっているのです。
・このようにアブラハムへの約束では、ソドムの町に10人の正しい者がいれば、神はソドムの町を滅ぼさ
ないと言われているのです。ところが、今日のこのエレミヤ書5章1節では、ひとりになっているのです。神
はエレミヤに、エルサレムの町を巡り歩いて、エルサレムの町に「正義を行い、真実を求める者が、・・・
ひとりでもいれば、」神はエルサレムを赦そうと、エレミヤに約束したというのです。
・「正義を行い、真実を求める者」。正義はヘブライ語ではミシュパート、これは法を指します。法を実行
することです。しかし同時に真実をもって、法の実行を内容的に追求するかどうかであります。真実はヘブ
ライ語ではエムーナー。これは、アーメンという言葉と同根であります。固く、法と法の背後にある神の意
志に一致しようとする態度が問題です。真剣にそのことを追求しようとしている者が一人でもいるかという
問いかけです(木田)。
・かつてエレミヤは北イスラエルに向かって、<もし、あなたが真実と公平と正義をもって「主は生きてお
られる」と誓うなら>、イスラエルは諸国の祝福の源となると約束しました(4:2)。しかしここでは、その
ように誓うからこそ、その誓いは偽りとなるのだと言うのです。2節に<「主は生きておられる」と言って誓
うからこそ/彼らの誓いは偽りの誓いとなるのだ。>のです。問題は真実なのだ。真実に目覚めさせようと
して、試練に合わせても、彼らは全く痛みを覚えず、悔い改めようとしない。これが、エレミヤが聞いた神
の言葉であります。
・この時エレミヤは、ヨシヤ王の宗教改革を支持し、それに参加していたものと思われます。ヨシヤ王の宗教
改革は、彼の治世がはじまって18年目の時(BC622年)に、エルサレム神殿で発見された律法の書に従って、
王と高官と大祭司をはじめとする、ユダの全体、さらにはイスラエルの全体に及ぶ運動として繰り広げられて
いきました。最初は礼拝改革で、それまであった地方の聖所がバール崇拝に冒されていましたので、その地方
聖所を廃止して、エルサレムに統一します。しかし、大きな集団を巻き込んだ運動は、その質的内実を維持す
ることは難しいのです。律法を守るという掛け声も、外面化せざるを得ず、人々の心の内面にまでおよぶこと
は至難なことです。そういう面でヨシヤ王の宗教改革も上っ面のものになっていったようです。
・エレミヤは、この神の言葉を受けて、改めてエルサレムの人々の間を巡り歩きました。エレミヤ自身が見た
結果が4節から6節までに記されています。「身分の低い人々」の間では、改革運動に真剣に取り組んでいる人
は見られませんでした。4節に<わたしは思った。/「これは身分の低い人々で、彼らは無知なのだ。/主の
道、神の掟を知らない。>と言われている通りです。とすれば「身分の高い人々」の間ではどうであろうかと、
エレミヤはそのように考えて訪ねてみましたが、状況は全く同じでした。
・それゆえ、エレミヤは彼らに対して審判の言葉を語らざるを得ませんでした。<それゆえ、森の獅子が彼ら
を襲い/荒れ地の狼が彼らを荒らし尽くす。/豹が町々をねらい/出て来る者を皆、餌食とする。/彼らは背
きを重ね/その背信が甚だしいからだ>(6節)と。
・12節、13節には、そのような彼らは、主の審きを告げる預言者の言葉に対してさえ、このように言うという
のです。それは<「主は何もなさらない。/我々に災いが臨むはずがない。/剣も飢饉も起こりはしない。/
預言者の言葉はむなしくなる。/『このようなことが起こる』と言っても/実現はしない>と。イザヤ書5章
19節にも同じような言葉が出てきます。<彼らは言う。/「イスラエルの聖なる方を急がせよ/早く事を起さ
せよ、それを見せてもらおう。/その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。/そうすれば納得しよう。」
>。随分傲慢な言い方ではありませんか。イザヤ書の方では、これは貴族たちの言葉とされています。
・そのように、傲慢な態度のゆえに、神はご自分の言葉をエレミヤに託されます。<それゆえ、万軍の主なる
神はこう言われる。/「彼らがこのような言葉を口にするからには/見よ、わたしはわたしの言葉を/あなた
の口に授ける。それは火となり/この民を薪とし、それを焼き尽くす>(14節)。エレミヤにとっては、神の
言葉は火であります。彼の体内にあって燃え、岩を打ち砕く槌のような力を持っているのです。
・このような今日のエレミヤの預言を通して考えさせられることは、一つは、エレミヤが語っている神の思い
というかみ心です。エルサレムの町に「正義を行い、真実を求める者が、・・・ひとりでもいれば、」神は
エルサレムを赦そうと、エレミヤに約束したということです。この「正義を行い、真実を求める者が・・・
一人でもいれば」神はエルサレムを赦すということは、神は忍耐をもって、私たちが「正義を行い、真実
を求める」者になることを心から願っているということを示していると考えられます。
・けれども、エレミヤの預言も語っているように、「正義を行い、真実を求める者」即ち「固く、法と法の
背後にある神の意志に一致しようとする」人間は、エレミヤの場合エルサレムン住民からは、一人として見
いだすことが出来なかったのです。そういう中でエレミヤは神の言葉を語らなければなりませんでした。こ
の大変厳しい孤独な闘いを、エレミヤは生涯貫いたのです。預言者として立ってはいましたが、エレミヤ自
身も、「正義を行い、真実を求める」たったひとりの人間にはなれなかったのです。神の赦しとその赦しを
拒絶する人間というその断絶の狭間で、エレミヤは苦しみ続けた預言者でありました。
・もう一つは、この神と人間の断絶をつなぐ方として、私たちには主イエスが与えられているということで
す。関根正雄さんは、<旧約の神が審きの神として現れるのは、その神が本来怒りの神であるからではなく、
その義が高くきびしい為に赦そうにも赦せないということなのである。神の本質は旧約においても愛であり、
赦しである。唯この「一人」が見出される迄は審きの神としてあらわれざるを得ないのである。新約の神は
旧約の神とその本質において異なるものではない。唯そこにはこの「一人の義しき人」が見出されるが故に
正面から愛の神として現れ給うのである。その意味でこのエレミヤの箇所は、旧約の中でも最も著しいキリ
ストの預言である」と言っています(註解59頁)。
・このこととの関連で、パウロのローマの信徒への手が3章21節以下を想い起さざるを得ません。パウロは
ローマの信徒への手紙3章21節の前で、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあると語り、詩編からの引用
で「正しい者はいない。一人もいない」(3:10)と語り、これは律法の下にいる人々に向けられている
(3:19)と言って、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前に義とされないからです。律法によ
っては、罪の自覚しか生じないのです」(3:20)と述べています。その後に3章21節以下があり、21では、
<ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何
の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエ
スによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。・・・・このように神は忍耐して
こられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる
者を義となさるためです。>(3:21-26)。
・ここには律法による義ではなく、イエス・キリストを信じる信仰のよる義に私たちが導かれていること
が、明確に述べられています。あのエレミヤの神と人間の断絶はイエスによって乗り越えられているとい
うのです。
・昨日教団議長名「戦後70年にあたって平和を求める祈り」が教会に送られてきました(船越通信221
を参照、明日掲載します)。この祈りを共にしてくれるようにという言葉が添えられていました。現在
の教団執行部は「戦争法案」についても、反対声明も何も出していません。祈るとうことは、行動する
ことです。「祈りつつ、待ちつつ、正義を行う」(ボンフェッファー)のです。行動の伴わない祈りは
空しいと思います。
・イエス・キリストを信じる信仰による義を与えられている私たちは、この時代と社会にあって、言葉
と行動をもって、軍事力によらない愛と真実による人間の和解と平和を求め続けていきたいと思います。