なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(219)

            船越通信癸横隠后 。横娃隠鞠7月12日    

・5日の日曜日の礼拝は、長方形に机を出して、その周りに座る形で礼拝を持ちました。説教についての話

し合いをするために、このような形をとらせてもらいました。私も講壇の下で、机の前に司会者のH・Sさん

と並んで席をとりました。この形で礼拝をしてみて、講壇から語るのと、説教の語り方が少し違うように感

じました。講壇の場合、どうしても上から下に座っている会衆に対面で話すものですから、話しかけるとい

うよりも説教調になるように思います。しかし、同じ平場の机を囲んで話す場合は、話しかけるような語り

になるように思われました。どちらがいいのかは分かりませんが、平場で話す方が、私としては話しやすい

ように思いました。

・さて、私の準備不足もあり、説教についての話し合いは、説教の直後に「分かち合い」という形でできれ

ばと思っていたのですが、打ち合わせも十分でなく、週報にも説教後の「分かち合い」を入れるのを忘れて、

通常の礼拝式でしたので、司会者の羽賀さんはそれに従って礼拝をリードしましたので、いつもの通りの順

序で礼拝が終わり、その後説教についての話し合いが行われました。その中に、エレミヤ書は時代背景など、

分からないことが多いので、言葉だけでなく、地図なども使ってビジュアルも取り入れて説教をしてもらえ

ると、分かり易いのではないかとう意見がありました。また、エレミヤの時代と現代がよく似ていると感じ

るという感想もありました。また、どの時代でもどんなに危機的な状況にあっても、社会の構造的な問題と

関わりなく、私的な生活を楽しむ人がいること。社会の構造的な問題に気づくことは、自覚的・主体的に問

題と取り組んでいないと、なかなか難しいことなどの意見がありました。

・この日は昼食会を予定していましたが、昼食会は取りやめて、H・Tさんがつくってきてくれましたケーキ

と、昼食会を予定してNさんがきゅうりの漬物をつくってもってきてくださいましたので、礼拝後礼拝堂のテ

ーブルでお茶にして、しばらく懇談しました。またN子さんが教会の庭の梅ノ木からとれた実でウメジュース

を作ってきてくださり、それを炭酸か水でうめていただきました。

・この日は朝から雨が激しく、礼拝が始まるころにはそれほど強くはなくなりましたが、それでもみなが散

会するまでずっと降り続いていました。礼拝出席者も7名でした。私はこの日、3時過ぎに船越教会を出て、

3日に紅葉坂教会のH・Kさんに急遽お願いしました私の説教集の装丁の原案をいただきにお宅に伺いました。

一時間ほどH・Kさんと話し合い、H・Kさんが快く引き受けて描いてくださった原画をいただいて、この日は

鶴巻に帰りました。新教出版社からきている説教集の再校原稿の校正をして、月曜日に装丁の原画と共に校

正した再校原稿を新教出版社に送るためにです。月曜日午前中に鶴巻の郵便局から送ることができました。

翌日の7日に新教出版社の小林さんとメールで一か所校正のやりとりをして、これで後は本として完成するだ

けになりました。装丁もデザインの方が、H・Kさんの原画をほぼそのまま採用してくれました。小林さんの

メールでは、7月21日に出来上がるということです。これで一年前に名古屋のH・Sさんからぜひ説教集を出

すようにと勧められ、H・Sさんが自主的に新教出版社の小林さんに直接掛け合ってくださった時から、私の

中で重い宿題になっていた課題を果たすことができましたので、ホッとしています。

・7日(火)は農伝に行き、最後の説教学の授業を終えて、その後蒔田教会で開催される7月の教区常置委

員会に向かいました。この日の常置委員会では19:00から鶴見教会問題が扱われますので、常置委員会の開始

は17:30からでしたが、その時間には間に合わず、18:00少し前に蒔田教会に着きました。鶴見教会問題という

のは、もう30年以上になるのでしょうか、鶴見教会のメンバーが二つに分かれて、同じ教会の敷地内にある

会堂とプレハブとで日曜日に二つの集会(礼拝)を行っていましたが、数年前に会堂側がプレハブのメンバー

を無視して、会堂側だけで教会総会を開いて教会解散を決めて、それぞれのメンバーは他教会に転会してしま

ったのです。その会堂側から出されている教会解散の書類を、教区常置委員会はプレハブ側のメンバーを無視

した会堂側の教会総会を認めることはできないというので、常置委員会預かりにして、会堂側とプレハブ側の

メンバーと話し合いながら、道をつけようと努力しているのです。今回は現在四国に在住している会堂側の代

務者を引き受けている某教師に常置委員会に来てもらい、話し合いの場が設定されました。プレハブ側のメン

バーも6人が来て、その話し合いに参加しました。それぞれの言い分は異なり、その間を埋めることは至難と

思われます。ただ教会解散の総会を開いた代務者は、会堂側だけでなくプレハブ側も同じ敷地で集会(礼拝)

を続けていたという事実をどう受け止めているのかがポイントになるように思われます。私はその点を代務

者の方に問いました。この事実の認識が欠けていたので、代務者の方は会堂側のメンバーだけで教会解散を

扱うことができると思われたのではないかと、私には思えました。代務者の方がその点の誤りに気付かれれ

ば、道が開かれていくのではないでしょうか。これは私の戒規免職の問題にも重なるのですが、他者性の問

題だと思うのです。どんなに敵対していても同じ仲間であるはずのメンバーを、意識的にか、無意識的にか

同じ仲間とは思わずに排除するのです。この排除の論理が問題を紛糾させるように思われます。私は私の戒

規免職問題を教団において問い続けていますが、私を排除した福音主義教会連合や連合長老会や東京神学大

学を批判はするけれども、排除しようとは思っていません。自分の思いとは異なる他者の存在との批判的な

関係を構築していかないと、それぞれの個性を生かした関係性を創り出すことはできないように思います。

・11日(土)14:00から紅葉坂教会で教区の核問題小委員会主催の「日本と原発」上映会があり、私も参加

しました。この映画は2度、3度見るに値すると、見た人から言われていましたが、私は今まで見る機会を逸

し、今回がはじめてでした。確かに良く出来ている映画です。映画を見て、改めて東電と国の在り方が、ひ

とりひとりの命と生活を守るということからすれば、全く反対の方向性にあるということを思わされました。

資本が国家を己の僕のように使って、自らの自己増殖を拡大するその様は、何ともおぞましい姿です。資本

と国家の無化は不可能なのか?