なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(10)

   「約束によって」ガラテヤン信徒への手紙3:15-18、2016年6月12日(日)船越教会礼拝説教

・皆さんは御自分の遺言を作成されているでしょうか。私は子どもたちに残すほどの財産は有りませんし

、自分が死んだらこうしてほしい、ああしてほしいという希望もありませんので、自分の遺言を作っては

いません。また自分の遺言を作ろうと考えたこともありません。ただ一度だけ、紅葉坂教会時代に私がお

世話しましたお年寄りの方の遺言を、弁護士によって作ってもらったことがあります。この遺言は公正証

書でしたので、法律に裏付けられた公式の遺言で、その弁護士に預かってもらい、私がお世話していたお

年寄りの方が召された後、その遺言によって遺産相続をしていただきました。公正証書となった遺言は、

それを書き換えない限り、後からそれを無効にすることはできませんし、また勝手に付け加えることもで

きません。

・先程司会者に読んでいただいたガラテヤの信徒への手紙第3章15節には、パウロもこの遺言を例に出して

、<兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言さえ、法律的に有効となったら、だれも無

効にしたり、それに追加したりはできません>と述べています。パウロは、アブラハムとその子孫に与え

られた神の約束の確かさを語るために、ここでこの遺言を例に出しているのです。アブラハムとその子孫

に与えられた神の約束とは、旧約聖書を読みますと「土地取得と子孫の繁栄」です。このアブラハムとそ

の子孫に与えられた神の約束は、遺言のように誰も無効にしたり、それに追加したりすることはできない

と、パウロは語っているのです。パウロは、「アブラハムとその子孫」のその子孫が単数で記されている

ことに注目して、その子孫とはキリストであると述べています(16節)。随分パウロの独断的な聖書解釈の

ように思われますが、このような聖書解釈は当時のユダヤ教ではよく行われていたもののようです。

・ところで何故パウロが、遺言を引き合いに出して、アブラハムとその子孫への神の約束の確かさについ

て、わざわざ語っているのでしょうか。それはガラテヤの教会にパウロの後にやってきたユダヤ主義者の

伝道者の語る言葉によってガラテヤの教会の信徒たちが影響を受けてしまったからです。ユダヤ主義者の

伝道者は、パウロの宣べ伝えた律法の実行によらない、福音を聞いて信じるただ信仰による義から、割礼

も律法も必要とするパウロとは異なる福音をガラテヤの教会の信徒たちに語りました。その結果ガラテヤ

の教会の信徒たちの中には、ユダヤ主義者の伝道者の宣教によって、割礼を受け律法を遵守しなければな

らないと考える人たちが相当多く出たようです。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(3:1)と

パウロが、このガラテヤの信徒への手紙の中で語っていることからも、そのように考えられると思われま

す。

パウロは、イエス・キリストの福音を信じる者が割礼や律法もなければならないというのは、遺言の書

き換えに等しいのはないかと言っているのです。神の約束の恵みは、それを信じる信仰によってのみその

人に与えられるのであって、割礼や律法も守らなければ与えられないというユダヤ主義者の考えは間違っ

ていると言うのです。<わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものとして定め

られた契約(約束)を、それから430年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはできな

いということです。相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。

しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです>(17,18節)と。

・ここでパウロが問題にしています、律法よりも神の約束の確かさが優っていることによって、ユダヤ

だけではなく、非ユダヤ人(異邦人)にも、律法の実行によらずにただその約束を信じる信仰によって神

の約束の恵みに与かることが許されていると言えるのであります。パウロはそのことを語りたかったので

す。この問題は、私が日本基督教団から洗礼を受けていない人にもその人が希望すれば誰にでも聖餐に与

かることを許しているということで戒規免職処分を受けている問題とも深く関わっているように思われま

す。

・このガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロは、回心後のパウロです。回心前のパウロは、キリスト者

の迫害者でした。この「迫害者サウロ」はガチガチのパリサイ派ユダヤ教徒でした。(以下は『戒規か

対話か』の渡辺英俊さんの見解による)。パウロ使徒言行録によれば、回心前にはサウロと呼ばれてい

ました。回心前の迫害者サウロ。なぜ彼はキリスト者の存在が許せなかったのか。自分に何の危害を加え

ているわけでもないキリスト者をなぜあんな風に迫害しなければいられなかったのか。それは自分の同族

であるユダヤ人でキリスト教になった人たち、ナザレ派に入った人たちが、割礼のない異邦人でも自分た

ちと一緒に神の救いに与るというメッセージを宣べ伝えている。ユダヤ人のくせに割礼を受けない異邦人

でも割礼なしに救われるなんて言う奴はどうしても許せない。なぜ許せないかと言うと、迫害者サウロ自

身が自分のアイデンティティーの根拠として、自分は割礼を受けたイスラエルであるという風に思ってい

た。それが彼の誇り、つまりアイデンティティーの根拠であった。これを後に彼は「わたしは生まれて

八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人中のヘブライ人です。

律法に関してはファリサイ派の一員……」(フィリピ3:5)と、自分の誇りだったことを書いていますが、

これはアイデンティティー、つまり自分がここに存在してもいいと思えるという、人間にとって生きる根

本になる大事なものです。そこまではいいとして、割礼を受けたユダヤ人であることが救いの絶対条件と

され、救われない異邦人に対する優越感がアイデンティティーの支えになる。こういう差別意識を含んだ

アイデンティティーは、多くの人の「日本人」意識にも見られるものです。ところが、割礼を受けなく

とも、救いに与ることができるということを、同じユダヤ人が言うというのは、その自分の存在根拠で

あるアイデンティティーを脅かす、突き崩すものであった。だから、同意できないというレベルを超えて、

そういう連中の存在自身が許せない。自分のアイデンティティーを危機に陥れるものは、排除しなければ

自分が否定されてしまう。やっつけないと安心できないという心理状態です。

・現代に飛んで現代の状況を考えると、ちょうど「迫害者サウロ」が割礼を受けたイスラエルであるとい

う点に、自分の誇り、自分の存在根拠を見出していたのと、パターンとしては全く同じ、洗礼を受けたク

リスチャンであるということに自分のアイデンティティーを持っている人たちがいる。洗礼を受けている

ことが救いの根拠であり、信じない人たちとは違う自分だというアイデンティティーの持ち方です。そう

しますと、洗礼を受けなくても聖餐に与れるなどと言う私のような人間がいるということは、じゃあ私の

洗礼は何だったのとなってしまう。アイデンティティーの根拠が脅かされる。だからそのことが許せない。

排除しないと、自分の存在が脅かされるわけです。これは、サウロの場合と中身は違うかもしれませんが、

パターンは全く同じなのであって、ある一つの条件を満たすことに救いの根拠を置く、つまりある一つの

条件にアイデンティティーの根拠のすべてがかかっている。それを脅かされるということは、自分の生存

が脅かされるということで、それで排除しなければいられないという精神状態になっているのだと思われ

ます。

・ ところが、後にパウロに何が起こるかと言うと、彼は回心するわけです。その結果どういうアイデン

ティティーが彼にできるかと言うと、「キリストにある無代価、無条件の救い」、それが彼の新しいアイ

デンティティーになるわけです。つまり、恵み・恩寵は人間の想定する条件よりもはるかに広く大きいの

であって、洗礼を受けていない人でも救うということが神にはできるはずだ。やろうとすればできる。そ

れは神の自由に属することで、人間の限定することではない。だから、洗礼を受けていない者が救いに与

ると言う人がいたっていいじゃないか。それは神様の自由に属することではないか。そういう風に枠を外

して考えると、お互いに同じ恵みのもとにある者として喧嘩しながら一緒に行こうよ、ということになれ

る。そう簡単にあんたの言う通りだということにはなりません。それぞれ自分の確信があるからです。そ

れはそれでいいわけです。信念があるわけですから。しかし、違った者が同じ神の恵みのもとに置かれて

いるということを土台に、喧嘩しながら一緒に行こうじゃないかということができる。それが我々の求め

ている対話ということなのではないかと思うのです。

・先ほどアブラハムに与えられた神の約束とは、旧約聖書では「土地取得と子孫の繁栄」として記るされ

ていると言いました。ということは、アブラハムに神が約束した恵みの内容が土地取得と子孫の繁栄とい

うことになります。この土地取得と子孫の繁栄は、狭い意味で考えれば、イスラエルの民の父祖アブラハ

ムへの約束ですから、イスラエル民族の居住地の確保とそこでの子孫繁栄を意味していると考え考えられ

ます。おそらく現代のユダヤ人の中にあるシオニズムにはその考え方が濃厚に表れていると思われます。

エルサレムパレスチナの土地に自分たちの国を作ることは、アブラハムの神の約束の実現成就だという

考え方です。けれども、アブラハムに神が約束した土地取得と子孫の繁栄を、全ての人にとっての居場所

の確保と生存の保証というように読むこともできるのではないでしょうか。もしそのように考えることが

許されるとすれば、このアブラハムに与えられた神の約束は全ての人にとっての恵みそのものではないで

しょうか。パウロがここで「アブラハムとその子孫に」の子孫をキリストと解釈しているのも、そのキリ

ストを通して全ての人に神の約束の恵みが与えられているのだと言いたいからだと思われます。キリスト

の王国があるとするならば、そのキリストの王国にあっては、誰一人居場所のない人はいません。また誰

一人生存が保証されていない人はいません。私たちはこのキリストの王国に招かれて、その王国の住人の

一人としてこの世を生きる者とされているのではないでしょうか。

・私たちの見える資本と権力によって支配されている現実社会には、自分の居場所がなく多くの彷徨って

いる人々がいます。難民の方々はその代表です。先日寿地区センターの講演会の講師の仁藤夢乃さんは、

『難民高校生』という本を書き、多くの高校生が自分居場所を求めて渋谷や秋葉原に来て、風俗の世界に

引き入れられている実態を話して下さいました。基地や原発によって生存が脅かされている沖縄や福島の

人々。年収200万円以下で生活しなければならない非正規雇用の労働者たち。路上生活者の方々や寿で生

活している人々もそうです。

・けれども、見えないイエス・キリストの王国では、そのすべての人々には居場所と生存が保証されてい

ます。イエス・キリストはそのために私たちの所にやって来て、その生涯と十字架と復活の出来事によっ

て、そのキリストの王国をこの世に打ち立て、イエス・キリストを信じる者たちにキリストの王国の住人

としてこの世を生きるようにと招いているのです。私たちもまた、この資本と権力の支配による現実社会

の構造的差別に抗って、神の約束の確かさを信じてその歩みを共有していきたいと思います。