なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

待降節第一主日説教

「目を覚まして」テサロニケの信徒への手紙5:1-11

           2017年12月3日(日)待降節第一主日礼拝船越教会礼拝説教


※この日の礼拝には聴覚障がい者の方が参加することになっていましたので、その方に説教前に原稿を

お渡ししました。項目を入れたのは、その方が読みやすくするためです。


はじめに


・今日は待降節アドベントの第一主日の日曜日です。今日からクリスマスまでの日曜日は、聖書日課

日曜日の聖書箇所の中からテキストを選んで、説教をしたいと思います。今日は、今司会者に読んでいた

だきましたテサロニケの信徒への手紙5章1-11節から、私たちに与えられているメッセージを聞きた

いと思います。


暗闇の夜に生きる人間


・4節に<しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません>と言われています。これ

はテサロニケの教会の信徒たちに語られた手紙の一節ですから、「暗闇の中にいるのではない」「あなた

がた」とは、テサロニケの教会の信徒たちを指していることが分かります。では「暗闇の中にいる人た

ち」とは、どのような人のことなのでしょうか。

・3節で、<人々が、「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです>と言わ

れています。この言葉からすれば、「暗闇の中にいる人たち」とは、将来、その時と時期については、

はっきりと何時とは言えないとしても、必ず破滅的な状況がやってくるということに結びついている現在

を、「無事だ、安全だ」と言って、能天気に生きている人たちのことであるということが分かります。現

在を「無事だ、安心だ」と言って生きている人の中には、(主の日の到来に伴う)破滅的な将来が来ると

いうことを分からないでいる人もいれば、分かっていながら、その破滅的な将来の到来を止められないと

諦めている人もいたかも知れません。

・何れにしろ、暗闇の中にいる人は、「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う

ので、慌てふためいてしまうと言うのです。それはちょうど「妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じ

で、決してそれから逃れられない」(3節)と言われています。

・このこととの関連で思い起こすのは、少し例としては飛躍しているかもしれませんが、福島の東電第一

原発事故です。この事故が起こる前までは、多くの人々は原発安全神話によって「無事だ、安全だ」と思

わされて、原発による恩恵を受けて生活していたのではないでしょうか。首都圏に生活しているこの私自

身も、福島東電第一原発から生まれる電力の恩恵を受けて生活していたわけです。けれども、事故が起き

るまでは、私自身も、原発の危険性に十分自覚的であったとは言えません。チェルノブイリー事故以来原

発の危険性については知ってはいましたが、日本に54基も原発が稼働していたことを、福島の事故が起

きてから初めて知りました。それほど原発につては、原発は破滅をもたらすその危険性の故に反対しなけ

ればならない自分の課題だという問題意識は、事故が起こる前にはそれほど強く持ってはいませんでし

た。中にはその危険性を知って、長年反原発の運動を続けておられる方もいらっしゃいましたので、その

ような方からすると、私は原発安全神話に取り込まれていた側の人間で、大変申し訳ないと思っていま

す。しかも事故の被害を受けて、住み慣れた生活を失ってしまったわけでもありませんので、原発事故に

よる破滅的な状況を経験している人に負い目を感じています。この点に関しては、私自身が「暗闇の中で

生きていた人間」ではないかと思っています。


光が輝く昼に生きる人間


・さてテサロニケの信徒への手紙第一の著者であるパウロは、テサロニケ教会の信徒たちにこのように

語っています。4節以下ですが、<しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。

ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の

子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属してはいません>(4,5節)と。ここに、テ

サロニケ教会の信徒たち、すなわちキリスト者たちは、暗闇の中に生きる人間ではなく、光の子、昼の子

として光の中に生きている人間であると言われているます。

・夜の暗闇の中では、遠くを見通すことはできません。都心に生活している人は、夜も明かりがあって、

真っ暗闇の状態を経験できないかもしれませんが、私が住んでいます鶴巻では、それを経験することが出

来ます。紅葉坂教会時代には教会がみなと未来のすぐ近くでしたので、夜中でも光が煌々と輝いていて、

真っ暗闇というところは、近くには殆どありませんでした。今住んでいます鶴巻では、少し歩くと田畑に

なりますので、暗闇の経験をすることができます。それでも完全な暗闇ではありませんが。


夜の闇と闘うキリスト者


・暗闇の中に生きていて、現在の生活が将来の破滅をもたらすことに気付かずに、眠っているに等しい人

たちと違って、キリスト者は「目覚めている」と、パウロは言います。<わたしたちは、夜にも暗闇にも

属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠

る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当

てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう>(5b~8節)

・「目を覚ます」とか「身を慎む」ということは、目標であり、完成である終末に向かって身を整えるこ

とを意味しています。<信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり>という言い回し

は、明らかに「胸当てを着け」、「兜をかぶり」からして、武装して闘う者の姿を言い表しています。こ

れらの言い回しからして、キリスト者は終末に向かってある種の戦闘態勢にあるのだと、パウロは言って

いるのです。


生きざまとしての信仰、愛、希望


パウロは、テサロニケの信徒への手紙一の最初に、挨拶を述べた後、このように語っています。<わた

したちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝して

います。あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリスト

対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているので

す>(1:2-3)と。ここにも信仰、愛、希望について記されていて、それが「信仰によって働き」「愛の

ために労苦し」「希望を持って忍耐している」と言われているのです。これは内容的には、<信仰と愛を

胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり>と同じことを言い表していると思われます。「働き、

労苦し、忍耐している」というのは、私たち人間の生きざまです。キリスト者は、「信仰によって働き」

「愛のために労苦し」「希望を持って忍耐している」者だと、パウロは言うのです。

・棚牡丹(たなぼた)式に信じさえすれば神の救いと解放が与えられるというのが、信仰ではありませ

ん。信仰は神の救いと解放に向かって信じて歩むことです。信仰者は能動的に生きる者です。「信仰に

よって働き」「愛のために労苦し」「希望を持って忍耐している」。それが<信仰と愛を胸当てとして着

け、救いの希望を兜としてかぶり>という言い回しになっているのです。


主イエスと共に生きるため


・9節以下を、も一度お読みしたいと思います。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わ

たしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちの

ために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようにな

るためです>(9,10節)。<ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの

向上に心がけなさい>(11節)。

・神が、わたしたちを、「主イエスと共に生きるようになるために」、わたしたちを導いてくださってい

るのだから、それにふさわしくわたしたちは生きていこうではないかと、パウロはテサロニケ教会の信徒

たちに促しているのです。その促しは、今、このわたしたちにも与えられているのではないでしょうか。

・「信仰によって働き」「愛のために労苦し」「希望を持って忍耐して」、この世の暗闇を「光の子、昼

の子」として、誰よりも誠実に、真実に生きられたのは、イエスではないでしょうか。イエスは真の神の

子、神の独り子だから、そのようにこの世の暗闇の中にあって、神の支配する神の国を生きることができ

たのです。


エスと共にこの世にあって神の国を生きる


パウロは、ローマの信徒への手紙14章17節で、<神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられ

る義と平和と喜びなのです>と言っています。イエスはこの神の国の到来を人々に告げて、わたしたちに

方向転換を迫った方です。何故なら神の国の到来こそが、聖霊による正義と平和と喜びそのものだからで

す。

・けれども、この世の現実には正義と平和と喜びを阻む様々な力が存在します。その代表がこの世の権力

であり、金の力です。権力と富がいかに不正を働き、正義と平和と喜びを踏みにじっているかは、福島東

電第一原発事故によっても明らかにされたことです。国家権力と大企業である電力会社が学者を巻き込

み、人びとをだまして原発推進をすすめてきた結果が、あの事故につながってしまったのです。

・夜の暗闇が支配するこの世の現実を、光の子、昼の子として生きるためには、闘う必要があります。闘

わない者は、夜の暗闇が支配するこの世の現実に巻き込まれていくしかありません。それが、<信仰と愛

を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいきましょう>(8節)という、パウロ

の促しなのです。

パウロの言葉は、どちらかと言うと、教会内のことに限られている傾向があります。ですから、パウロ

にとっては、キリスト者の闘いも教会内倫理という面が強かったと考えられます。正義と平和と喜びを阻

害する様々なこの世の悪しき力との闘いとして、キリスト者の闘いを考えるのは、パウロの拡大解釈にな

るかも知れませんが、私は強いてその拡大解釈をこのテサロニケの信徒への手紙の箇所からしたいと思い

ます。

・沖縄で辺野古の新基地建設の反対運動に取り組んでいます目取真俊さんのブログに、こういう言葉があ

りました。「多額の予算を費やした工事を政府は簡単に止めることはできない。ましてやそれが米国との

約束であるなら、どれだけ時間がかかっても日本政府は強引に工事を進め続けるだろう。それを止めるこ

とができるのは沖縄人が怒りを爆発させるときだ。国のやることには勝てない、という負け犬根性を克服

できずに行動を起こせなければ、沖縄にろくな将来はない」(目取真俊ブログから、2017年11月2

1日)。

・<信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいきましょう>(8節)と

いう、パウロの促しを、このような文脈の中で聞きたいと思います。


おわりに

・今日は待降節の第一主日の日曜日です。待降節とはイエスの到来を待ち望む季節です。イエスの到来を

待ち望むということは、神の国の到来を待ち望むことです。神の国の到来を待ち望む望むとうことは、私

たちの中に義と平和と喜びが満ち溢れる、そのような世界の到来です。そのような世界の到来をもたらす

聖霊の働きにわたしたちも参与させていただきたいと切に願う者でありたいと思います。


・祈ります。

・神さま、待降節第一主日の礼拝に共にあずかることが許され、心から感謝いたします。クリスマスが近

づいてきました。今年も、「暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」

(マタイ4:16)と言われるクリスマスの出来事によって、わたしたちが光を見いだすことができますよう

に。今も様々な苦しみ、悲しみ、痛みの中で生きざるを得ない一人一人を、どうぞあなたが覚えて下さ

り、適切な支えと助けが与えられますように。今日礼拝に集うことが出来ませんでした、わたしたちの仲

間の一人一人に、その場にあってあなたの恵みを豊かにお与えください。この小さな祈りを、イエスの名

によって御前にお捧げいたします。
                                 アーメン