なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒へ手紙による説教(1)

   「仲保者」ガラテヤの信徒への手紙1:1-5、2015年6月14日(日)船越教会礼拝説教

・最近日曜日のこの礼拝では、エレミヤ書をテキストにして説教をしています。月一回は新約聖書をテキスト

に説教をと思い、ガラテヤの信徒への手紙を選びました。ガラテヤの信徒への手紙は月一回の聖書研究で学び

終えたばかりですが、説教のテキストにして、パウロのメッセージに耳を傾けたいと思います。今日は、ガラ

テヤの信徒への手紙1章1節から5節までの「挨拶」のところを扱います。

・手紙の挨拶と言いますと、私たちの場合、「爽やかな初夏を迎え、木々の緑も日増しに深くなってまいりま

した。ご一同様には、なお一層お健やかにお過ごしのことと存じます」というように、時候の挨拶や安否の挨

拶になるのではないかと思います。

 パウロの場合、まず発信人の名前、ガラテヤの信徒への手紙では「人々からでもなく、人を通してでもなく、

イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならび

に、わたしと一緒にいる兄弟一同から」になります。パウロは自分自身の自己紹介に詳しい説明をつけていま

す。自分は「イエス・キリストと父である神によって使徒とされた」人物であるということを強調しています。

・次に受信人の名前ですが、「ガラテヤ地方の諸教会へ」となっています。そして前書き部分を結ぶ常套句(こ

とば)が、パウロの手紙では「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがた

にあるように」です。

・この手紙の書き出しの形式は、パウロの生きていたヘレニズム(ギリシャ・ローマ)世界の手紙の書き出し

に従っているものと思われます。ただ最後の常套句(ことば)の部分は、ヘレニズム世界の手紙では、通常は

「挨拶を送る」が通例であり、「御健勝でありますように」という相手の健康を願う文書が付け加わること

もあったと言われています。

・例えば今、月一回の聖書研究で学びはじめていますヤコブの手紙の挨拶は、「神と主イエス・キリストの僕

であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」(1:1)となっています。ヤコブの手紙

の方は、ヘレニズム世界の通例の挨拶になっているのであります。

・「わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように」は、パウロ

独自のものと思われます。パウロの手紙は、相手の教会の信徒との牧会的対話を目的に書かれていますから、

それにふさわしい手紙の挨拶の最後の常套句(ことば)をパウロは、当時のヘレニズムの教会の礼拝で用いられ

ていた頌栄のことば「恵みと平和」にしたのでしょう。

・この発信人の名前、受信人の名前、それに挨拶の最後を締める常套句(ことば)で、手紙の挨拶の部分は終わ

ってしかるべきなのですが、ガラテヤの信徒への手紙では、更に4節、5節が続いています。4節は信仰告白

言ってよいでしょう。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたし

たちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのである」。5節は頌栄賛美で

す。「わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように。アーメン」。

・4節の信仰告白の核になっているのは、キリストの贖罪の出来事です。「キリは、・・・御自身をわたした

ちの罪のために献げてくださった」と、イエス・キリストの十字架を贖罪(罪の贖い)としてとらえているの

であります。このイエス・キリストの十字架の出来事を贖罪とする信仰は、パウロが創造したというよりも、

彼も受けた初代教会の伝承(言い伝え)であったと思われます。すでにパウロ以前に初代教会の中でそのよう

な贖罪の信仰が生まれていたということです。

・讃美歌21の306番に「あなたもそこにいたのか」という受難の讃美歌があります。みなさんもよくご存じの

讃美歌と思いますが、その1番の歌詞は、「あなたもそこにいたのか、/主が十字架についたとき。/ああ、

いま思い出すと/深い深い罪に/わたしはふるえてくる。」です。この讃美歌は歌詞も曲も「アフロ・アメ

リカン・スピリチュアル」と記されています。「アフロ」とは「アフリカ系の」という意味ですから、この讃

美歌は黒人霊歌の一つと言えます。

・「ふるえる」ほどの「深い深い罪」とは、この讃美歌の作者にとってはどのような罪なのでしょうか。アフ

リカ系アメリカ人の先祖は奴隷売買によってアメリカに来た人たちです。アメリカ社会は、今でも黒人への警

察官の暴行や殺人が起こり、それに抗議する黒人のデモが行われるほどに、黒人差別が根深い社会です。そう

いう社会で生きている黒人が言うところの、自らの中にある「ふるえる」ほどの「深い深い罪」とは、人間に

とって普遍的なエゴイズム、神も隣人も利用してはばからない自己中心性という、私たち人間にある傲慢を言

うのでしょうか。それとも、この社会の悪に加担する己の罪なのでしょうか。

・ガラテヤの信徒への手紙1章4節の信仰告白には、イエス・キリストの贖罪の信仰を示す言葉にプラスして、

キリストは、「わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとし

て」という言葉が付け加えられています。実は学者の中には、この部分は、パウロが受け継いだ初代教会の贖

罪信仰の告白に、パウロ自身が付加したものであるという人もいます。もしそうだとすると、パウロは、「こ

の悪の世からわたしたちを救い出そう」という神の御心にイエス・キリストが従って、「御自身をわたしたち

の罪のために献げてくださったのである」ということを強調していることになります。

・この4節を本田哲郎さんは、「キリストは、わたしたちが道をふみはずしていたゆえに、抑圧的なことが幅

を利かせるこの世の営みからわたしたちを引き起こそうと、ご自分を差し出してくださいました。これは父で

ある神の御心によることでした」と訳しています。本田さんは、新共同訳聖書で「わたしたちの罪のために」

と訳されているところを、「わたしたちが道をふみはずしていたゆえに」と訳しています。罪という言葉はハ

マルティアで、「的をはずす」という意味です。的をめがけてはなたれた矢が、的に当たらず、どんでもない

方向にそれて行ってしまうという意味です。ですから、本多さんは、「わたしたちの罪のために」を「わたし

たちが道をふみはずしていたゆえに」と訳したのです。

・「罪」というと、わたしたちが犯す個々の過ちをイメージしますが、「道をふみはず」というと、わたした

ちの在り方、生き方そのものが問われているように思われます。私たちの在り方、生き方が根本的に歪んでいて、

人間本来の真実を見失って、どのでもない方向をめざして生きているという感じでしょうか。山登りに譬えれ

ば、頂上に通じる道からそれてしまって、遭難の危険性が高い道を歩いているということになるでしょう。

・「この悪の世からわたしたちを救い出そうとして」と新共同訳聖書で訳されているところを、本多さんは

「抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営みからわたしたちを引き起こそうと」と訳しています。「この悪の

世」は「抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営み」と訳しています。「悪」というと抽象的で、何が悪と考

えるかは、一人一人によって違うと思いますが、「抑圧的なことが幅を利かせる」というと、誰もがこの社会

における抑圧・差別を思い浮かべます。今でも黒人差別による事件が起こるアメリカ社会を思い起こしたり、

在日の方々に対するヘイトスピーチが問題になるこの日本社会を思い起こします。この社会の中に様々な差別

があるのは、「抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営み」そのものなのです。

・今日はこの礼拝に、聴覚に障がいのある方と在日コリアンの方が出席しています。お二人にとっては、「抑

圧的なことが幅を利かせるこの世の営み」によって苦しみを味わっておわれると思いますので、この訳が響く

のではないかと思います。日常的に差別を受けている方は敏感なのですが、そうでない人の場合は、なかなか

このことに気づけないのです。「抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営み」によって苦しんでいる人との出

会いによって、そのことに気づかされるのです。本田哲郎さんは釜ヶ崎で日雇い労働者や野宿者と出会うこと

によって、「この悪の世」を「抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営み」と訳したのだと思います。

パウロは、イエスの十字架の出来事にわたしたちの罪の贖いという贖罪信仰を見出した初代教会の人々の信

仰を受け継ぎ、彼の生きた現実、特にユダヤ人と非ユダヤ人(異邦人)の間にある隔ての壁を前にして、それ

を深めていったのではないでしょうか。「キリストは、・・・御自身をわたしたちの罪のために献げてくださ

った」という彼が初代教会から受け継いだ贖罪信仰に、「わたしたちの神であり父である方の御心に従い、こ

の悪の世からわたしたちを救い出そうとして」という言葉を付け加えたのも、そのためだったと言えるでしょ

う。

・「キリストは、わたしたちが道をふみはずしていたゆえに、抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営みから

わたしたちを引き起こそうと、ご自分を差し出してくださいました。これは父である神の御心によることでし

た」。わたしたちが道をふみはずし、抑圧的なことが幅を利かせるこの世の営みに加担するわたしたちを引き

起こそうと、キリストはご自分を差し出してくださったという、このパウロの言葉を噛みしめたいと思います。

このことは、キリストによってわたしたちが奴隷の軛から解放されて、自由を与えられたのだと、パウロは手

紙の後半で記しています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった

のです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(5:1)。さらに「兄弟たち

、あなたがたは自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、

愛によって互いに仕えなさい。律法の全体は、「隣人を、自分のように愛しなさい」という一句によって全う

されるからです。だから、互にかみ合い、共食いしているのなら、互に滅ぼされないように注意しなさい」

(5:13-15)と。

イエス・キリストがわたしたちにそのような自由を与えて下さるために、十字架を担ってくださったという

ことを覚えて、わたしたちもこの時代と社会の中でこのキリストにある自由をもって互いに仕え合って生きて

いきたいと切に願うものであります。