なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ガラテヤの信徒への手紙による説教(19)

       「互いに重荷を担う」ガラテヤの信徒への手紙6:1-10、

                        2017年5月14日(日)礼拝説教

・今日はガラテヤの信徒への手紙6章1節から10節の聖書の箇所から、私たちイエス・キリストを信じる

キリスト者はどのように生きて行くのかという、キリスト者の倫理について、ガラテヤの信徒たちに向け

られたパウロの語りかけを、私たち一人一人に対する語りかけとして聞きたいと思います。

・今私は、「私たちイエス・キリストを信じるキリスト者」と言いましたが、そもそもキリスト者とは一

体どんな人間なのでしょうか。もし皆さんが自分はキリスト者であると認めているとするならば、皆さん

キリスト者であるご自分をとはどんな人間であるとお考えでしょうか。

キリスト者とは、この私たちがイエス・キリストの者であるということなのです。イエス・キリスト

ものとは、私という人間における主(あるじ)が自分でもなく、また誰か私を支配する他人でもなく、イ

エス・キリストであるということです。

ハイデルベルク信仰問答の問1とその答えには、私たちがイエス・キリストのものであるということが

どのようなことであるかが、明瞭に語られています。少し長くなりますが紹介します。

・問1 生きる時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか?

答 わたしのからだも魂も、両方とも、 生きる時も、死ぬ時も 、わたしのものではなく 、わたしのほん

とうの救い主イエス・キリストのものであることです 。このお方は、ご自分の貴い血によって 、わたし

のすべての罪の代償を、完全に支払って下さいました 。そしてわたしを、悪魔のすべての力から、救い

出し 、今も守って下さいますから 、 天にいらっしゃいます、わたしの御父のみこころによらないで

は、 わたしの頭からは、一本の髪の毛も落ちることはありません 。そればかりか すべての事が わたし

の祝福に役立つに違いないのです 、 、 。そのため、主は、その聖霊によっても、 わたしに永遠の生命

を与えることを約束してくださり 、これからは、わたしが、心から進み喜んで、 主のために生きること

ができるようにして下さるのです 。

・このハイデルベルクシンク問答の問1とその答えから、イエス・キリストのものであるキリスト者

は、「心から進み喜んで、主のために生きることができる」人間ということになります。皆さんはどうで

しょうか。一人のキリスト者として、「心から進み喜んで、主のために生き」ているでしょうか。

パウロが今日の聖書箇所で問題にしていることも、ガラテヤの信徒たちがイエス・キリストのものとし

て、「心から進み喜んで、主のために生きること」でした。今日の聖書箇所の前の5章24節25節でパウロ

はこのように述べています。《キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字

架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前

進しましょう》と。ですから、続く26節で、肉に従って生きること、すなわち《うぬぼれて、互に挑み

合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう》と言っているのです。

イエス・キリストを信じてイエス・キリストのものとされた私たちですが、肉の束縛から完全に解放さ

れているわけではありません。この地上で生きている間、私たちは肉の誘惑のもとにありますから、罪を

犯すこともあり得るのです。

・初代教会以来代々のキリスト者が、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく/我らの罪をゆるし

たまえ。/我らをこころみにあわせず、/悪より救い出し給え」と主の祈りを祈り続けているのも、罪を

犯す自分の弱さを熟知しているからではないでしょうか。ですから、パウロは《兄弟たち、万一だれかが

不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい

道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いな

さい。そのようにしてこそ、キリストの律法(隣人を自分のように愛しなさい)を全うすることになるの

です》(6:1,2)と、「信仰に基づいた助け合い」(6:1-10の新共同訳の表題)の必要を記しているので

す。

・何故なら、私たちキリスト者は、「既に<霊の人>でありながら、まだ<霊の人>ではない」という存

在ですから、不完全さや弱さを自分の内に抱えているのです。《互いの重荷を負いなさい》という時の

《重荷》とは、そのようなキリスト者の不完全さや弱さを指していると思われます。《疲れた者、重荷を

負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい》(マタイ11:28)というイエスが言われた「重荷」とは意

味が少し違います。イエスの場合は、キリスト者が持つ不完全さや弱さだけではなく、私たちを襲うさま

ざまな苦しみを「重荷」と言っているからです。パウロはガラテヤの信徒に語っており、イエスは「だれ

でも」と言われているように、すべての人に向けて語っているからです。

・このようにキリスト者として不完全さや弱さゆえに罪を犯す可能性のある私たちが互いにその重荷を担

うと共に、各自は自分自身の行いを吟味し、めいめいが、自分の重荷を担うべきであると、パウロは語っ

ているのです。それが肉によってではなく、霊に従って生きるキリスト者の生き方であると、パウロ

言っているのであります。その意味でパウロがここで語っているキリスト者としてどのように生きるかと

いうキリスト者の生き方は教会内倫理という面が強くでているように思われます。

キリスト者は同じキリスト者の仲間を持つと共に、この世にあっては教会共同体で生きているだけでは

なく、非キリスト者の人たちと共にこの社会の中で一市民として生きています。互いにと言う場合、信仰

者の仲間同士の互いにと共に、この社会を構成しているお互いという意味では、信仰者同士の仲間を越え

て、すべての人とも互いに担うべきイエスの言う重荷も持っているのではないでしょうか。日本の米軍基

地の74%という過重な基地負担を強いられ、ヤマトによる沖縄差別を受け続けている沖縄の方々の重荷

も、私たちキリスト者が共に担う重荷ではないでしょうか。福島東電第一原発事故による放射能の被曝の

恐れの中で生活している被災者の重荷も共に担うべきものですし、その他この社会で生きている様々な差

別や貧困の苦しみを負って生きている人々の重荷もその人たちと同じ社会に生きている私たちが共に担う

べき重荷なのです。これらの重荷はこの社会の構造から生まれている苦しみですから、その同じ社会に生

きる人すべての責任でもあるからです。

・その意味でキリスト者としてのパウロの教会内倫理は、社会のことは関係ないと言う形で、教会内に閉

じられるものではありません。社会においても教会と同じように互いに重荷を担い、めいめい自分の重荷

を担う、そのような生き方がキリスト者には求められていると思うのであります。

・ですから、6節の《御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい》

というパウロの勧めも、社会に開かれていくとすれば、持てる者と持たない者とがすべて分かち合いなさ

いという勧めになっていくのです。

・さて、7節以下の今日の聖書箇所の後半には、「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることにな

る」という格言とも思われる言葉がでてきます。「天に唾を吐く」という、これも格言と言えるかと思い

ますが、そういう言葉があります。天に向かって唾を吐くと、その唾は自分の顔に落ちてきます。自分の

したことの結果は自分自身が引き受けざるを得ないということです。《人は、自分の蒔いたものを、また

刈り取ることになる」ということは、そういうことです。ですから、パウロは続けて、《自分の肉に蒔く

者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります》(8節)と語っているの

です。

・大変厳しいことですが、私たちが霊に導かれて「心から進み喜んで、主のために生きる」とすれば、そ

れにふさわしい実を刈り取ることになるというのです。その実をは永遠の命だというのです。永遠の命と

は永遠い意味ある生と言い換えることができると思います。霊に導かれて「心から進み喜んで、主のため

に生きる」とすれば、その人が生きる時代や社会を異にしてもすべての人にとって永遠に意味のある生

を、私たちは生きることが出来るのだというのです。しかし、「既に<霊の人>でありながら、まだ<霊

の人>ではない」肉なる存在である私たちは、《自分の肉に蒔く》こともできるのです。そして《自分の

肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取》ることになるのです。

・ですからパウロは、《たゆまず善を行いましょう》と勧めています。ここでの「善」とは、原語ではカ

ロンで、10節の《・・・善を行いましょう》の善はアガトンで9節の言葉と違いますが、文脈上はどちら

も「隣人愛の奉仕」を表していると言われます(新共同訳聖書註解)。つまり「自分を愛するように、隣

人を愛しなさい」というキリストの律法の実践です。パウロは、その善の実行を《飽きずに励んでいれ

ば、時が来て、実を刈り取ることになります》と言っているのです。《時が良くても悪くても福音を宣べ

伝えよ》と言われているように、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」というキリストの律法の実

践を、時が良くても悪くても、飽きずに励むことを、パウロは勧めているのです。そうすれば、《時が来

て、実を刈り取ることになります》とパウロはいているのですが、この《時が来て》とは終末の審判の時

を指していると思われます。《ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家

族になった人々に対して、善を行いましょう》(10節)とパウロは言っているのです。今の時が良かろう

と悪かろうと、与えられている時間がある限り、飽きずに励んで、《すべての人に対して、特に信仰に

よって家族になった人々に対して、善を行いましょう》と。

パウロが善の実践の対象として「すべての人」と言いながら、「特に信仰を同じくする仲間」と限定す

ることによって、隣人愛を教会の仲間内での兄弟愛に矮小化し、すべての人のための福音の普遍主義的原

則から逸脱しているのか。或は現実に日常的な関係を取り結んでいる教会の仲間への善の実践が、当然す

べての人へと広がっていくと、パウロが考えていたのかはよくわかりません。私たちは後者として理解し

たいと思います。ただ《たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取るこ

とになります》という言葉を信頼したいと思います。例え状況がどんなに悪くてもあきらめないことでは

ないでしょうか。その意味で「勝つまであきらめない」という沖縄の辺野古の闘いに学びたいと思いま

す。