なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

永眠者記念礼拝説教(2021年11月7日)

11月7(日)降誕前第7主日・永眠者記念礼拝(10:30開始)

 

(注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しま

しょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」          (ローマ5:5)

③ 讃美歌   18(心を高くあげよ!)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-018.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編105編1-11節(讃美歌交読詩編115頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マルコによる福音書12:18―27節(新約86頁)

     (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌     518(主にありてぞ)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-518.htm

 

⑨ 説  教   「死者の復活」             北村慈郎牧師

  祈  祷

 

  • 今日は永眠者記念礼拝です。既に召された方々を偲び、何れ私たちも召される時を迎えますので、その時の備えになればと思います。

 

  • 前にも紹介したことがあるかも知れませんが、高村光太郎に「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という言葉があります。この言葉を私が知ったのは、吉本隆明の著書からです。ある人がこの言葉が高村のどの詩の中の言葉なのかを調べたところ、「夏書十題」(ゲガキジュウダイ)のなかのひとつ、「死ねば」という表題が付された、亡くなった母を追慕した短詩(原詩は、二行立てで「死ねば死にきり。/自然は水際立つてゐる。」)だったそうです。

 

  • 吉本隆明は著書のなかでつぎのように語っています。<身体とそれに伴う精神の死について、僕のいちばん好きなことばがあります。それは高村光太郎の詩のなかにある『死ねば死にきり 自然は水際立っている』ということばです。死ねば死にきりで、自然は見事なものだと高村光太郎は言ってるわけでしょう。僕は、人間の心身の死はこれでいいのではないかと思っています>と。

 

  • 吉本は、仏教やキリスト教などの宗教的な死生観をはじめから否定しているわけではありません。人間は永遠だというのも、人間は輪廻転生(リンネテンショウ)するものだというのも、それはそれでとてもいい感じですが>と言っているのです。しかしその後に続けて、<何となく嘘くさい。僕は「死ねば死にきり」でいいという気がします>と言っているのです。

 

  • 「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という短詩で、吉本が言っているように、高村光太郎は、人間は死んで自然に帰るが、その自然は水際だって見事なものだと言うのでしょう。

 

  • 実際に連れ合いの死を経験して、肉体としての人間は物質として自然に帰るように思われました。火葬場で荼毘に付されると、目に見えるものとして残るのは骨と灰です。それを骨壺に入れて、火葬場から家に持ち帰ってくるわけです。また、焼き場で焼かれた時には、骨や灰だけでなく、炭素や窒素や炭酸ガスなどという形で、空気中に残っているわけです

 

  • 肉体としての人間は、死後火葬されても、そういう形で存続しているとも考えられるわけです。それが人間の死後の姿だとしたら、死後人間は自然の一部となって生き続けている。その自然は水際立って見事だと言えるのではないでしょうか。

 

  • また吉本はこうも言っているのであります。<本人は何も持っていくわけではないけれど、愛した、愛された記憶とか、その人の生活の跡はあとに残された生きてる人に残る。それが残れば上出来じゃないでしょうか>と。

 

  • これは確かに連れ合いが死んだ後も、彼女が生きていた時の生活の跡は残された私の中に色濃く生きていて、私の心の中では彼女は今も生き続けているように感じています。

  • それでは、聖書では、私たち人間の死と死後のことについては、どのように語られているのでしょうか。マルコによる福音書の12章18節以下の、サドカイ派の人々とイエスの「復活についての問答」の物語から聞いてみたいと思います。

 

  • 今日の記事に登場してくるのは、「死人の復活」などはあるはずがないと思っていたサドカイ派の人たちです。イエスの時代のユダヤ人の中では、サドカイ派の人たち以外はファリサイ派の人たちをはじめ「死人の復活」はあると信じていたようです。サドカイ派の人たちが復活を否定しているのは、彼らがある種の原理主義者で、彼らが拠り所としていました成文化されたモ-セ律法であります旧約聖書の最初の五書の中には、死者の復活という考え方がないからです。旧約聖書で死者の復活が記されているのは、エゼキエル書の有名な「枯れた骨の復活」(37章)や黙示文学のダニエル書です。ですから、イスラエルの歴史の中で「死者の復活」が現れるのは捕囚期以降ということになります。

 

  • サドカイ派の人たちは、「復活についての問答」の物語において、実際にはありそうにありませんが、けれども全くないとは言えない例を引いて、死者の復活の無意味さを主張しているのであります。七人の兄弟の話です。旧約聖書では、男が子供を得ることなく死んだ時、彼の兄弟がその妻を引き取って結婚し、彼の兄弟に世継を与えなければならないと定めています(申命記25:5以下)次々に七人の兄弟が死に、長男の妻をすべての兄弟が妻としたとすると、復活したときこの女は誰の妻なのか、という質問です。

 

  • ここでイエスは、そのような質問をしたサドカイ人に対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と答えています。「あなたたちは全く間違った前提から判断しているので、聖書に書かれていることの意味も理解できないし、神の力の可能性を予想することもできない。なぜなら死者の復活は、この世と自己との関係をあの世に延長させてはくれないからだ。死者の復活においては、もはや娶ったり、嫁いだりということはなく、復活した人々は天上で天使のようになるであろう」と言うのです。

 

  • サドカイ人の異議がこのようにして退けられた後に、死者の復活の希望の根拠となる積極的論拠が述べられます。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出エジプト3:6)。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と。

 

  • 神のおられるところには死はあり得ない。神のもとには生命があり、死はない。そして現在があり、過去はない。なぜなら、神が父祖アブラハムとイサクとヤコブの名を挙げる時、それによって神はかつて彼らの神であったというだけではなく、今も彼らの神であるということを告知しておられるからです。そこでは「すべての人は神によって生きている」(ルカ20:38)という言葉が常に当てはまるに違いありません。神はご自分の民を放置されず、約束を守り、彼らを死から生命へと呼び出されるのであります。神は生きている者の神であるが故に、死者の復活があります。その時、どのようなことが起こるのかは論ずる必要はありません。生々しい描写など不必要です。この世で親しかった人々との再会があるかについて、何の示唆も与えられていません。もっぱら神の神たることだけが語られているだけです。神の許にある者は生きている。このことを知っているだけで十分なのです。

 

  • このように見てくると、サドカイ派の人たちの現実主義的、現実肯定的な在り方がどこから出てきているかが明らかになります。イエスによって「あなたがたは、…そんな思い違いをしているのではないか」(24、27節)と言われているわけですが、それは、「死人の復活」を否定するサドカイ人たちが「死は変えられない現実」として受け入れてしまっていることを指しているのです。死がすべての人を襲い、死によって無に帰する。これは厳粛な現実のように思われます。その中で人間は「死んだ状態」にあるというのです。

 

  • しばらく前に、この説教でも取り上げましたロ-マの信徒への手紙4:17以下で、パウロアブラハムを引き合いに出して、このように語っています。

 

  • 「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ100歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方であと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけのです。しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためにだけ記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられるのです」(ローマ4:17b-25)。

 

 

  • 生ける者の神、イエス・キリストを死人のうちからよみがえらせた神は、アダムが罪を犯すことによって罪と死の現実に束縛されている私たちを解放してくださり、イエスと共に神の子供として、わたしたちを生かしたもう神なのであります。

 

  • 私は、以前復活日の説教で、箱根駅伝に譬えて、復活は往路ではなく復路を生きることだということを申し上げました。人間のすべての営みが死に極まるとすれば(それが往路です)、復活信仰というのは、その死からのよみがえりです(それが復路です)。死という私たちにとって最後の最後から、立ちあがってくる命の力です。失望し、絶望し、あきらめざるを得ない死の状態から新たな光がさしてきて、その光に導かれていくときに、私たちは失望落胆の中で希望を信じて生きることができるのではないでしょうか。

 

  • そのような復活信仰の延長上に、パウロもコリントの信徒への手紙15章で「死人の復活」について語っているのではないでしょうか。パウロは死人の復活について語ったあと、それを受けて、このように言っています。<この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです>(Ⅰコリ15:54-58)。

 

  • 「死人の復活」は、まさに神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であることを物語っているのであります。その信仰によって、私たちは罪と死の恐れから解き放たれて、主の業に励むことができるのではないでしょうか。主に結ばれているならば、私たちの苦労が無駄になることはないと、私たちは知っているからです。

 

祈ります。

  • 神さま、今日も会堂に集まって礼拝をすることができ、心から感謝いたします。
  • 神さま、今日は永眠者記念礼拝です。ここにある写真の方々は既にこの地上での生涯を終えて、あなたのもとに召された方々です。この方々は肉体としてはこの世にいませんが、あなたのもとにある永遠の交わりを、今も私たちと共に生きていることを信じます。また、この方々があなたの平安のうちにあることを信じます。
  • けれども、愛する者を天上に送って、残された遺族の方々をはじめ私たちには、淋しさがあることも事実です。どうかその一人一人をあなたが慰め力づけてください。私たちもまた、いずれ召される時を迎えることになります。神さま、どうかその時まで、生けるあなたを信じて、主の業に励むことができますように、私たち一人一人を支えてください。
  • 神さま、地球温暖化と気候危機が深刻になっています。豊かな生活を求めて自然を収奪している私たちの生き方を変える勇気と、自然との共生へと私たちをお導きください。
  • また、今世界で貧困に苦しんでいる人々には、その命と生活が守られる富が公平に分配されるように、富める国や私たちを導いてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。
  • 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

 

⑩ 讃 美 歌     385(花彩る春を)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-385.htm

⑪ 献  金 (後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)                                 

讃美歌21 28(み栄えあれや)
http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。