使徒言行録による説教(86)使徒言行録24:1-16、
・イエスが受難と十字架を身に負ったのは、全き神の子であるイエスには避けることができなかった道であり
ました。イエスは弟子たちにこのように祈れと教えた主の祈りを、ただ祈るだけでなく、祈りつつ主の祈りを
現実に生きた方であります。「御名を崇めさせ給え」「御国を来らせたまえ」「御心の天になるごとく、地に
もなさせたまえ」と祈りつつ、この地上で神の名が崇められること、この地上に神の国が来ること、神の御心
が天において完全に実現しているように、この地上でも実現すること。そのことをこの世の現実の只中で生き
たのです。「われらの日常の糧を与えたまえ」。「我らが罪を赦す如く、我らの罪を赦し給え」「我らを試み
に合わせず、悪より救い出したまえ」。これらのことも、ただ祈るだけでなく、そのように生きたのです。
・イエスは、まさに私たちと同じ人間としてこの世に誕生し、私たちと同じようにこの世の生活を生きた方で
す。けれども、その生きざまは私たちとはとは根本的に違いました。イエスは、この世の子としてではなく、
神の独り子としてこの世を生きたのです。そのようなイエスがこの世の権力者による受難と十字架を負わざる
を得なかったのは避けることはできない道でした。神の支配としての神の国とこの世の現実は違うからです。
イエスは大祭司の庭で、最高法院の審問を受け、その後ローマ総督ピラトの審問を受け、十字架にかけられ
て殺されました。
・実は使徒言行録の著者ルカは、この使徒言行録のパウロの記事で、パウロがイエスと同じようにユダヤの最
高法院の審問を受け、ローマ総督フェリクスの前で、訴えられて審問を受けていることを記しています。その
ことによって、ルカは、パウロもイエスと同じように苦難を受けていることを強調しているのかも知れません。
・パウロは、エルサレムからローマ総督の館のあるカイサリアまで、ローマ兵に護送されてやってきました。
それは、ユダヤ人の陰謀からパウロを守るためにローマの千人隊長リシアの判断で行われました。パウロがカ
イサリアに連れてこられてから五日後に、エルサレムから<大祭司アナニアは、長老数名と弁護士テルティロ
スという者を連れて下って来て、総督にパウロを訴え出た>(24:1)のです。ここで「弁護士」と訳されてい
る原語は、「話し手」「代弁者」という意味の言葉で、田川健三さんは「通訳」と訳しています。大祭司アナ
ニアはユダヤ人でローマ総督フェリクスとは日常会話の言語が違います。アナニアは当時のユダヤ人の日常語
であったアラム語で話していた出ようから、ギリシャ語が堪能な話し手、代弁者テルティロスという人物をエ
ルサレムから連れて来たということではないかと思われます。
・パウロを殺害する陰謀に加わったのは40人以上のユダヤ人たちでした。彼らは最高法院を開いて、そこにパ
ウロを連れてくる途中を襲って殺す陰謀を企てていたのです。彼らは、カイサリアのローマ総督の下に連れて
行かれたパウロを、エルサレムに連れ戻すために大祭司らを説得してカイサリアに行ってもらったのでしょう。
大祭司らがパウロをエルサレムに連れ帰ることに成功したならば、その途中でパウロを暗殺するつもりだった
に違いありません。このことからして、パウロはユダヤ教を信じるユダヤ人からの総反発を受けていたことが
分かります。その理由が、今日のところにははっきりと三つあることが記されています(24:5,6)。
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レ人の分派」の主謀者であること。 エルサレム神殿さえも汚そうとしたこと。この三つです。大祭司らを
代弁してパウロを訴えたテルティロのこの三つの主張に対して、パウロはその弁明でこのように語っています。
第一の騒動を起こしている者であるということについては、<確かめていただければ分かることですが、私が
礼拝のためエルサレッムに上ってから、まだ12日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私
がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発し
ている件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません>(24:11~13)と、パウロは述べて、はっ
きりと否定しています。
・2番目の「ナザレ派の分派」の主謀者という訴えについても、パウロは<しかし、ここで、はっきり申し上
げます>と言って、「分派」がユダヤ教を否定するものではないことを語っています。この「はっきり申し上
げます」はホモゴゲオーという言葉で、「告白する」と訳される言葉です。ですから、このところは、「しか
し、私はこのことをあなたの前で告白します」と訳すことができます。告白の内容は二つあり、一つは、<
私は、彼らが「分派」と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の
書に書いてあることを、ことごとく信じています>です。パウロは、大祭司らが訴えているように、自分はユ
ダヤ教を否定しているのではなく、確かに「ナザレ人の分派」としてイエスを信じているが、ユダヤ教を否定
しているわけではない。「先祖の神を礼拝し、律法も預言者もことごとく信じている」と告白しているのです。
もう一つは、<更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。
この希望は、この人たち自身も同じように抱いております>です。このところを田川さんの訳で読んでみます。
「私は神に希望を抱いております。その希望は、この者たち自身もまた待望しているものです。復活が起こる
であろうということ、義人だけでなく、義人でない者も復活するということです」。パウロは、ここで「神に
希望を抱いております」と告白しているのです。そしてその希望は、義人だけでなく、義人でない者も復活す
るということだと言っているのです。
・未来に希望を持っている者には、困難の中でも現在を生き抜く力を与えられます。しかし、何も希望が持て
ずに絶望の中にある人は、困難の中でも現在を生き抜く力を得ることができずに、投げやりになってしまうの
ではないでしょうか。精神科医ヴィクトール・フランクルは、強制収容所の体験を基に『夜と霧』を書いてい
ます。強制収容所という極限の状況の中で、ガス室に送り込まれなかった人の中では、家族に会うまでは死ね
ないとか、自分の研究を完成させるまでは死ねないとかいう未来に希望を持っている人はその極限状況を耐え
て生き延びることができたが、そうでない人は生き延びられなかったという趣旨のことを書いています。
・パウロが、「私は神に希望を抱いております」と言う時に、パウロはその希望の故に今現在をどう生きるの
かということを真剣に求めていったのではないでしょうか。「義人だけでなく、義人でない者も復活する」と
いう復活信仰は、イエスにおける神の救済の確かさを示している言葉です。人間の罪に勝る神の愛の確かさで
す。「石の心では人を甦らすことはできない」というギリシャの哲人の言葉があるそうですが、神は石の心の
方ではありません。その独り子であるイエスを私たちの所に遣わして、イエスを十字架に引き渡すことによっ
て、私たちを極みまで愛したもう方なのです。そのことによってイエスを殺した的外れな人間に神はその愛を
もって勝利しているのです。その信仰の故に、16節で「こうわけで私は、神に対しても人に対しても、責めら
れることのない良心を絶えず保つように努めています」と、パウロは言うことができたのではないでしょうか。
・ローマ総督フェリクスや大祭司アナニアを前にして、パウロの弁明は実に堂々としています。そのように確
信に満ちているパウロの姿は、驚きそのものです。イエスは、マタイによる福音書10章26節から28節で、この
ように語っています。<人々を恐れてはならない。覆われているもので、現れないものはなく、隠れているも
ので知られずに済むものはないからである。わたしは暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。
耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体を殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れるな。む
しろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい>。パウロも、このイエスの言葉を実践しているの
ではないでしょうか。
・神への信頼、イエスの福音への信頼が、人を自由にするように思います。ユダヤ人によるリンチからのロー
マ兵による救出、最高法院での尋問、ユダヤ人によるパウロ暗殺の陰謀のためにエルサレムからカイサリアへ
の護送、カイサリアにおける大祭司アナニアらの訴えによるローマ総督フェリックスの前での尋問と、パウロ
は立て続けに起こる困難に直面しています。しかし、その中でパウロが堂々と信仰告白をすることができたの
は、この神への希望と信頼、イエスの福音への信頼ではなかったでしょうか。
・3・11の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電事故以後、ますます状況は厳しくなってきています。
その状況に比例するかのように、私たちの教会もまた、信徒の高齢化によって厳しい状況に追い詰められてい
るように思われます。それだけではなく、世俗化の流れがあらゆる領域に広がり、物質文明が人々の精神生活
を支配しているかのように思われます。しかし、受肉したイエスは、その生涯と十字架と復活の出来事によっ
て、今日もこの私たちの只中に臨在しておられるのではないでしょうか。そしてこのイエスの生涯と十字架と
復活の出来事によって神もまた今こと時に御霊によって私たちの只中で働いておられるのではないでしょうか。
私たちは、例え少人数であったとしても、このイエスと神と聖霊のみ業を、今この時に信仰をもって告白し続
ける者でありたいと願います。<人々を恐れてはならない。覆われているもので、現れないものはなく、隠れ
ているもので知られずに済むものはないからである。わたしは暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言い
なさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体を殺しても、魂を殺すことのできない者を恐れ
るな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい>とのイエスの言葉に耳を傾けつつ。