なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(182)

          船越通信癸隠牽押 。横娃隠看10月19日                  

・12日の日曜日は礼拝後、お茶の会と懇談の前に男性4人で、道路階段入口に立てかけてある、以前向かい側の

道路に設置されていて撤去された古い船越教会の看板を階段上の教会の庭に持ってきました。その看板が前週

の台風で階段側に倒れ、また13日から14日にかけて大型の台風が襲来するというので、上にあげました。そし

てお茶をいただき、しばらく懇談いてから、この日は早目に散会しました。私もこの日は早目に船越教会を出

て鶴巻に向かいました。

・13日(月・祝)には、寿地区センターのボランティア交流会を農村伝道神学校で行うことになっていました。

そのチラシにはこのような呼びかけ文がありました。「2014年10月13日、緑豊かな鶴川野津田にある農村伝道

神学校で交流のひと時を持ちたいと思います。寿で活動する労働者、ボランティア、パットロールグループの

方々・関係者に呼び掛けました。/バーベキューをしながらみんなで交流したいと思います。その他に農村伝

道神学校の栗林で栗拾い(中略)ができます。・・・」。この交流会も台風19号のために中止になってしまい

ました。

・私は14日(火)農村伝道神学校に行きましたが、寮にいた学生の話では13日の夜は強風と雨で怖かったとい

うことでした。何時も歩いて行く野津田のバス停から坂の傾斜の緩い遠回りの道には、嵐の後の木の枝や葉が

散乱していましたが、以前台風の後に歩いた時ほどではありませんでしたので、私はそれほどひどくはなかっ

たのではと勝手に思っていました。街灯もほとんどない山の木立の中にある農伝の寮での台風体験は、私の想

像を越えていたのでしょう。

・この週は16日の木曜日、早目に鶴巻から船越に移動し、10月29日の教団総会会期中に予定している私の支援

会の「全国交流集会」の案内第2信を、住所・名前の把握している教団総会議員を中心に200通ほど発送しま

した。いよいよ教団総会(10月28日~30日開催)が近づいてきました。今総会にも神奈川教区総会決議議案と

して私の免職撤回と聖餐論議の場の設定を求める議案が出ていますが(大阪教区からも同趣旨の議案が出てい

ます)、どうなりますか。きちっと審議してもらえるとよいのですが。現教団執行部は対話によって一致を求

めていくという、少数者の意見にも耳を傾けて事柄を判断していくという姿勢ではなく、多数による少数者の

圧殺という極めて横暴な姿勢でずっと来ていますので、今総会も同じ姿勢を貫いてくるものと思われます。私

の支援会の世話人代表をしていてくださっている関田寛雄牧師が、8月28日の支援会集会で言われた言葉を大

切に、今総会も傍聴席で見守りたいと思います。「おそらくあちらの方はまたもや手際よく多数派工作をやっ

てきますよね。ですから、勝つとは思えないですよ。敗北だと思いますよ。だけどもね、多数決でもって議論

を封殺して、無理無体に議論を抑え込んで議決を見出していくというよりもですね、正論を吐きながら負けた

方がいいですよ」。

・17日(金)には夜寿地区活動委員会が寿地区センターでありました。このところ炊き出しにもなかなか参加

できないでいますが、委員会の責任は来年3月まで私が果たすことになっていますので、毎月の委員会と寿地区

活動委員会の報告のある常置委員会には欠席しないようにしています。寿地区センターの活動はすべて献金

よって支えられていますが、今年度の献金がこの数か月今までよりも少なくなってきています。支援者の高齢

化と共に昨今の経済状況に影響されているのではと思いますが、皆様の知人友人に寿の活動をご理解いただい

て、経済的なサポートをお願いしていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

・この寿の委員会で配られた新聞切り抜きの中に、貧困の問題とは違いますが、関東大震災朝鮮人・中国人

の虐殺についての記事がありました。しばらく前に国会前での辺野古新基地反対座り込みに参加したとき、関

東大震災の朝鮮人虐殺はなかったと、スピーカーで怒鳴っていた人ましたので、この新聞切り抜きの記事の一

部を転載させてもらい、同じことを繰り返さないためにも、私たちが犯した過ちを忘れないで、事実を事実と

して認識しておきたいと思います。「関東大震災直後の被災地で日本らに虐殺された中国人の遺族18人が来日

し、6日(9月)、東京都墨田区横網町公園で先祖を悼む儀式を行った。遺族らは大震災の死者を追悼するた

めに中国仏教徒が寄贈した公園内の『幽冥鐘』前で、中国式に紙銭をたたき、先人を弔った。1924年、当時の

日本政府は虐殺を認めたが、現在、事実を知る日本人は少ない。遺族からは『両国の友好のためにも、このこ

とをないがしろにしないでほしい』との声が上がった」。「中国人の虐殺が行われたのは1923年9月2日ごろ

から。3日昼ごろには大島町(現東京都江東区)で日本人によって数百人が殺され、同じころ横浜でも事件が

発生した。地理的に日本と近い温州から来日していた華僑の職人たちが命を絶たれた」(以上、神奈川新聞

、2014年9月7日)。「91年前の関東大震災直後に虐殺された朝鮮人らを追悼する集会が7日(9月)、横浜

市西区の久保山墓地で開かれた。虐殺の真相究明に取り組む市民グループや神奈川朝鮮中高級学校の生徒ら

約100名が参加。慰霊碑に献花し、痛ましい歴史を語り継ぐことの大切さと差別撤廃への思いを新たにした」

。「追悼会は、市民グループなどで作る『関東大震災朝鮮人虐殺の真実を知り追悼する神奈川実行委員会

』が主催。幼少期に虐殺を目撃したという石橋大司さん(故人)が、1974年に私財を投じて建立した関

東大震災殉難朝鮮人慰霊碑の前で、市民グループなどが調査した当時の記録を報告した。/実行委の山本す

み子代表は『虐殺の実態は、いまだに分かっていないことが多く、権力が過去に隠蔽したことを、こじ開け

る闘いだ』とあいさつ。ヘイトスピーチをめぐり国連が日本政府に改善を勧告したことに触れ、『政府はヘ

イトスピーチを取り締まらず、われわれのような集会を取り締まろうとしている』と批判した」(神奈川新

聞、2014年9月8日)。