黙想と祈りの夕べ通信(526)を掲載します。2009年10月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(526[Ⅺ-04]2009・10・25発行)復刻版
今日の聖書朗読箇所のマルコによる福音書記者2章1-12節の「中風の人の癒し」の物語は、イエスの福
音という出来事がどんな出来事なのかがよく伝わってきます。イエスが家の中で集まってきた大勢の人々
に、「御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た」というのです。先ずこの光景を想
像しますと、四人の男が体を動かすことのできない中風を患っている人を、床ごと静かに優しく抱えて、
イエスのいる家まで連れてきます。家は人がいっぱいで、外側から屋根に上り、「イエスがおられる辺り
の屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろし」ました。するとイエスはこの病人に罪の赦
しを宣言し、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言います。「その人は起き上がり、すぐに床
を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』
と言って、神を賛美した」というのです。この物語の中には罪の赦しをめぐるイエスと律法学者との確執
がありますが、全体は中風を病む病者の癒しを核として、この病者をイエスのところに担いで来た四人の
男の存在が際立ち、何かほのぼのとしたいのちの輝きが伝わってきます。イエスの福音には死をいのちに
変える復活の使信がその中核にあるように思われますが、この物語にはそれがよく表現されているように
思うのです。ですから、この中風の人の癒しの物語を読む度に、イエスの福音のいのちに導かれていくの
で、私にはこの物語は福音書のイエスのいろいろな物語の中でも特に心惹かれるものの一つです。
上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。先週のこの会で、私は「神学生のときには、
性差別がなかったと言ったが、自分が気づけなかっただけで神学生の時にも性差別はあった。性差別を受
けて傷ついた方には申し訳なかった。18日の日曜日の礼拝説教でも反省することがあった。原稿を何度も
み直し、言葉に気をつけたが、最後のところで原稿は「共に歩む」で終わっていたが、「行動」という言
葉を語ってしまった。この言葉は強すぎるように思う。言葉に気をつけたい。今回の説教は昨年の夏期伝
道実習の時とは違って、会衆の顔も見えたし、会堂が狭く感じた。一年間で説教する時の感覚が変わって、
距離が短くなったことを感謝している。
続いてもう一人の方から発言がありました。今週の通信にあるヘンリー・ナウエンの言葉に「教会を信じ
る」とある。教会は信仰の対象であるということだ。私には神を信じることよりも教会を信じることが困
難だ。実は一昨日常議員会を陪席して、何を信じたらよいのかという思いを持った。常議員会に出ている
牧師も、教会では愛を語っていると思うのだが、常議員会での発言には相手のことをどれだけ考えている
か疑問に思うことが多い。教団の会議が政治の場になっていて、自分がお互いによりよいものをめざして
会議をするものと思っていたのは幻想だったようだ。私は沖縄教区が教団とに距離を置くことになった
第33/18回教団総会以来、常議員会に陪席している。第36/21回総会期常議員会は、今回が第3回ではじ
めて陪席したが、余りに一方的な議決がなされて、もう来るものかと思って帰ってきた。そんなことでナ
ウエンの「教会を信じる」に、はっとさせられた。教団の現状は力関係に終始していたとしても、祈り行
動することが大切であることに気づかされた。なすべきことを自分自身なしていくことが、教会を信じる
ということではないかと思わされた。
今回はじめて参加された方が発言されました。今日の招きの言葉にあるようによく祈れない時がある。
もしかしたら自分に信仰がないのかと思うが、そういう自分の事もイエスはよく分かってくれているもの
と思う。考えていることと祈ることが一致しないと祈れない。自分は祈れないという思いを抱えながら教
会に来ていた。それでも神のみ旨が示されている教会に来れることは恵みである。女性である自分は学校
の教師をしていて、中学生を教えているが、中学生は男の教師の言うことはきくが、女の教師のことは聞
かないところがある。これも性差別ではないかと思うが、そういう理不尽さを抱えながら学校で教えてい
る。祈れなかったが、それでも良いと言われると、ほっとする。
「教会でキリストに会う」 10月25日
教会を愛するためには、ロマンチックな感情を必要としません。教会を愛するには、むしろご自分の民
の中に生きておられるキリストに出会い、キリストその人を愛したいと望むのと同じように、キリストの
民を愛する意志が必要です。このことは、「小さな」人々~貧しい人、抑圧されている人、忘れられてい
る人~ばかりではなく、「大きな」人々~教会で権威を行使する人々~を愛する意志を持つことでもあり
ます。
教会を愛するとは、教会の内にあって、私たちが行くところどこにおいても、イエスに出会おうという
心がまえがあることです。それは、あらゆる人の考えや行動に同意し、それらをよしとするべきだという
意味ではありません。反対に、教会を愛するなら、私たちからキリストを隠してしまう人々に、正面から
立ち向かうよう求められることさえあるでしょう。しかし、対決するにせよ支持するにせよ、批判するに
せよ賞讃するにせよ
、教会を愛する心で語り、行動する時にのみ、私たちは実り豊かな関りを持つ者となれるのだと思います。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)