なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(527)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(527)復刻版を掲載します。2009年11月のものです。この通信は5年前の

ものですが、このころから私の戒規免職処分に至る具体的な動きが教団内において顕著になっていきます。



          黙想と祈りの夕べ通信(527[Ⅺ-05]2009・11・1発行)復刻版


 10月28日(水)の黙想と祈りの夕べは二人の参加者でした。聖書の言葉に耳を傾け、黙想し、お話をして

祈りました。

 さて10月19日(月)-20日(火)に行われました常議員会で、教師委員会の報告の中で私への戒規適用申

立書が7名の常議員信徒からあり、教師委員会はそれを受理し、調査委員会を立ち上げたという報告がありま

した。その報告に対して議長団は質問だけを受け、常議員会で受理の正当性を問うことなく、報告承認しま

した。この一連の行為は、昨秋の教団総会で常議員会が私への戒規適用申立をすることを無効とする議案が

僅差で可決されましたので、別の方法で私を戒規にかけようという人たちが、戒規適用申立人について信仰

職制委員会に諮問を出し、信仰職制委員会の答申に基づいて、上記の私への戒規申立書が信徒常議員個人に

よって出され、それを教師委員会が受理したわけです。何がなんでも私を戒規にかけて排除しようというの

でしょう。この状況の中で私は何ができるかを考えて、昨秋の教団総会以来の私への戒規適用をめぐるやり

取りの資料をそろえ、それに「私への戒規適用申立を受理した教師委員会を問う」という文章を書き上げ、

教団の全教会伝道所に送り、実態を知っていただき、教師委員会への抗議を寄せてもらうことにしました。

今の常議員会では何を言っても多数決による裁決で葬られますので、諸教会・伝道所へ直接実態を知らせ、

訴えることしかないと考えたからです。教団の全教会・伝道所約1700、それに信徒の教団総会議員、神学教

師、かながわ明日の教団を考える会の方々等へ約240、連れ合いに少し手伝ってもらいましたが、私の責任

ほぼ一人で作業をしメール便で出しました。私は「私への戒規適用申立書を受理した教師委員会を問う」と

いう文章で、事実を知らせると共に、教師委員会への抗議と現在及び今後の教団への憂慮を記しました。

その最後の部分をここに載せておきます。

 「現在教団は常議員会をはじめ教団政治の場では単純多数決ですべての事柄が決められています。違っ

た意見を闘わせて、正・反・合という両者の意見を越えたよりよい真実を求めて祈りつつ熱心に議論して

いく熱意はほとんどありません。賛成意見、反対意見を言わせるだけで、すぐ裁決して多数決で決めてし

まいます。これでは創造性の余地は皆無です。

 教団信仰告白・教憲教規遵守の立場の方々は、伝道する教会を標榜し、教団の教勢と財政の減退にふれ

て危機感を煽ります。しかし、1970年以降一番多く教会の現場に教師を送っているのは東京神学大学です。

この40年間全国の教会に東神大出身者の牧師が熱心に伝道しているのではないでしょうか。それでもなぜ

教勢は増えないのでしょうか。教団信仰告白・教憲教規を遵守する立場の方々は、伝道する教会と言い、

ともしますと戦責告白を大切にし、社会的関心を持ち活動する教会・信徒・教職に対して、伝道しないか

のような短絡した意見を述べます。福音宣教にとって人権や平和を大切にする方々は、それぞれの地域で

少数ではあっても誠実に宣教の働きを担っています。イエスを主とする教会の宣教は数ではありません。

たとえ少数でもその福音宣教をもって世に仕えていく教会が各地に存在していくことを、私たちは喜び、

その働きを支え合うことが肝要ではないでしょうか。

 現在の教団信仰告白・教憲教規遵守の立場の方々によって主導される教団が続くとすれば、日本基督教

団の教会は、政治的社会的関心には疎い教条主義的な教会で、圧倒的に都市部の人が集まる大教会だけが

残っていくようになるでしょう。このことを私たちの信仰の主イエス・キリストは喜ばれるでしょうか。

私もそろそろ牧師を引退する年になりましたので、何れ近いうちに現役を退いていく人間として、現在及

び今後の教団への憂慮を述べさせていただきました」。      


          「教会の周辺へ」         11月1日 


 この世界で周辺にいる人々は、教会では中心にいます。それが、あるべき姿なのです。したがって、教

会のメンバーである私たちは、社会の周辺にいる人々のところへ常に出かけて行くようにと呼びかけられ

ています。家を失った人々、飢えた人々、親のない子どもたち、エイズに感染している人々、情緒不安定

の兄弟姉妹、私たちはこれらの人々に、何よりも先に関心を持ち、関わる必要があります。 私たちが社

会の周辺にいる人々に手を差し伸べることに精根を傾ける時、取るに足りないことから始まる仲違いや、

不毛な議論、やる気をなくさせる対立などは影を潜め、少しずつ消えていくものだということを発見する

に違いありません。私たちの関心が、私たち自身から離れ、私たちの心を向けるべき人々の方へ移る時、

教会は常に新しくされていくでしょう。イエスの祝福は、常に弱い立場の人々を通して私たちのところに

届きます。社会から忘れ去られてしまう弱い立場の人々と共に働く時に体験することは、貧しい人々は

結局彼らが受けるよりも多くのものを与えてくれるということです。貧しい人々は私たちに成長するため

の糧を与えてくれます。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)