黙想と祈りの夕べ通信(528)復刻版を掲載します。2009年11月のものです。この通信にも、
私の戒規申立が一常議員によって教師委員会に出され、教師委員会がそれを受理し、教師委員会内で調
査員を選び、その調査員会から私に第一回の面談申し出の手紙が来たことが記してあります。
黙想と祈りの夕べ通信(528[Ⅺ-06]2009・11・8発行)復刻版
前回の通信で、信徒常議員7名による私への戒規適用申立を教師委員会が受理し、調査委員会が立ち上
がったことを書きました。10月28日付けで調査委員会から私のほうへ召喚の日程を決めて欲しいという書
面がおくられてきました。その前後に当教会役員会と私の名で教師委員会に「質問書」(受付掲示板にあ
ります)を出していました。私は教師委員会幹事にその質問書への回答を待って、調査委員会の召喚に応
じるかどうかを考える旨電話で申し入れておきました。その間教団の執行機関の責任者である総幹事の内
藤留幸さんには、教師委員会から私への戒規適用申立を受理した理由をしるした正式の通知が来ていない
ことを指摘し、教師委員会にきちっと私に通知を出すように申し入れておきました。
11月4日付けで「質問書」への教師委員会の「回答」(受付の掲示板にあります)が来ました。その内容
は、教師委員会は信仰職制委員会の答申に基づいて行動しているので、「質問書」の質問は信仰職制委員
会への質問なので、そちらの方に聞いて欲しいというものです。極めて形式的な回答でした。
7日夜に対策委員会を開いて今後の対応を考えました。今回もK弁護士が対策委員会に陪席してください
ました。対策委員会では信仰職制委員会へ「質問書」を出し、その回答が来るまでは調査委員会に日程を
決めるのを待ってもらうことにしました。
以上が私への戒規適用申立を受理した教師委員会から現在までの経過です。ここで私自身が考えている
今後の推移を述べておきたいと思います。
洗礼を受けていない者にも希望する人には誰にでも配餐する開かれた聖餐は、紅葉坂教会の総会決議を
経て当教会では行っていますので、このことは教団と言えども、今のところどうすることもできません。
この開かれて聖餐を行っている教会が、教団全体ではどのくらいかは正確には分かりませんが、1~2割の
教会で行っているものと思われます。これは信仰の問題ですので、教憲教規によって裁かれるべき問題で
はありません。教会にとって法は宣教に仕えるものであって、現行の法を越える宣教の課題は、神学論争
を経て道がつけられていくべきものです。一つの教団にとっても、多様性を抱えながら論争を通して切磋
琢磨し、お互いに新しい発見をしてエネルギーが生まれるのではないかと思います。今の教団の大勢は異
質な者を排除して自分たちの考え方だけが正しいとし、仲間だけで固まろうとしていますが、それでは教
団に生き生きとした生命力がなくなってしまうでしょう。ですから、当教会としては自ら決断した開かれ
た聖餐を大切にし、同時に異なる立場の考え方とも開かれた対話をしていくことではないでしょうか。
私が現在教団から教師退任勧告や戒規適用の問題にさらされているのは、教師は教団が任命権を持って
いるからです。開かれた聖餐は教会の総会決議で行っているものですから、本来教会に勧告し戒規適用す
べきなのですが、制度上それができないので、教師である私に向けられているわけです。
聖餐という問題は宗教上の問題ですので、この世の裁判では信教の自由という憲法上の問題もあり、扱
わないでしょう。私の問題も日本基督教団という宗教教団内部の問題ですので、教団内部で道をつけてい
かなければなりません。そのためには広く理解してもらうこと、支援者を増やしていくことだと思います。
今さし当たってできることは、教師委員会に私への戒規適用申立受理を撤回してもらうことですので、下
記教師委員宛てに手紙を出していただけると幸いです。ある方の助言で教師委員会委員長宛だけではなく、
各委員に出すことが有効とのことですので、よろしくお願いいたします。戒規適用申立人の某常議員の宛
先も記しておきます。
(教師委員会委員・幹事・申立人宛先)
【以下名前と住所を記載してありますが、この復刻版では割愛させてもらいます。】
「聖徒の交わり」 11月8日
自分はそのメンバーであるとはっきり意識している人々の集まりであるというふうに、教会を限定して
しまうことがよくあります。けれども、キリストに連なっているすべての人々の教会、生きているキリス
トを見せてくれる証し人たちの集まりである教会といったように、教会はあらゆる人間の制度の限界をは
るかに超えるものです。イエス御自身が言われたように、聖霊は「思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)の
です。イエスの霊は、どんな人間の限界にも制約されません。
教会には、地の果てまで、そしてさらに遠く広く届いている復活したキリストを証する、聖徒たちの交
わり、という姿があります。この交わりは、過去、現在、未来、地の果てから果てまでのあらゆる人々に
開かれ、人々を温かく包んでいます。教会の交わりとは、言葉と行いによってイエスは主であると宣べ伝
えてきた人々、そして今も宣べ伝える人々の果てしなく広がるコミュニティーのことです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)