使徒言行録による説教(89)使徒言行録25:13-27、
・福音書の中にイエスは弟子たちに世の終わりについて語っている所があります(マタイ24:3-14、マルコ
13:3-13、ルカ21:7-19)。そこでイエスは世の終わりには戦争や地震があり、飢饉や疫病が起こり、恐ろし
い現象や著しい徴が天に現れると、終末の破滅的な状況を語った後に、「しかし、これらのことがすべて起
こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前
に引っ張られていく。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(ルカ21:12,13)と語っています。
・ パウロがローマ総督のもとでユダヤ人の大祭司たちや長老たちから訴えられて弁明を繰り返してい
ます使徒言行録の記事も、弟子たちに語られたと言われるイエスの言葉がパウロにおいて実際に起こってい
るという風に受け止められるかも知れません。福音書のイエスの言葉には、「どんな反対者でも、対抗も反
論もできないような言葉と知恵を、わたしはあなたがたに授ける」(ルカ21:15)と言われています。
・今日の使徒言行録の箇所は、前任のローマ総督フェリックスがユダヤ人に気に入られるために結論を2年間
も引き延ばして牢に留置したままになっていたパウロの問題を、フェリックスに代わって新しく総督に就任
したフェストゥスが、何とか早く処理したいと思い、アグリッパ王とベルニケの表敬訪問を利用しようとし
ているところであります。
・ここに出てくるアグリッパ王はアグリッパ二世のことで、紀元44年に死んだアグリッパ一世の息子で、
ローマで教育を受けた後、紀元48年にカルキスの王に任ぜられた人です。後にガリラヤ、ペレヤなども所領
に加えられ、一貫してローマに忠誠を誓った人で、ユダヤの民衆を無視し、エルサレムの祭司たちとも敵対
関係にあった王と言われています。ベルニケもアグリッパ一世の娘で、アグリッパ二世の妹です。彼女はア
レキサンドリアのマルコスという人物と結婚しましたが、夫の死後、父の意志に従って、その兄(つまり伯
父にあたる)カルキスのヘロデの妻となりました。しかし、この夫も48年に死去し(兄アグリッパがその王
位を受けついだわけだが)、その後彼女はこの兄と同棲しているという噂が立ったので、彼女はこの悪評を
打ち消すために、キリキヤの王ポレモンに、割礼を受けて自分と結婚するよう誘いました。しかしこの結婚
も長続きせず、放埓なベルニケがポレモンを見捨てた、と噂されていたというのです。この二人が新しくユ
ダヤのローマの総督に就任したフェストゥスのところにやってきたというのは、当時慣例として行われてい
た表敬訪問だったと思われます。
・このような表敬訪問には、アグリッパ王とベルニケが、誰に視線を向けているかが表れています。二人にと
ってフェストゥスは己の力と知恵によって対抗勢力を抑えて権力を得た者であります。アグリッパとフェス
トゥスは同じ権力者としてここに登場しています。アグリッパの視線は、自らが王として君臨する国の民であ
る民衆に向けられてはいません。まして天地万物の創造者である見えない神にアグリッパの視線は向けられて
はいません。何よりも同じ権力者であり、当時の絶対的な権力者であるローマ皇帝から派遣され、新しく就任
した総督フェストゥスにアグリッパの視線は向けられていたのです。
・このアグリッパの曽祖父、ひいおじいさんがイエス誕生の時のユダヤの王であるヘロデ大王です。このヘロ
デ大王はイエスの誕生に関わりました。しかし、ヘロデ大王は自らの権力基盤を維持するために、幼子イエス
を殺させようとした人物です。ヘロデ大王もイエスと出会い、その機会を与えられながら、イエスによっても
たらされた神の救済、すべての人に自由と愛をもたらす福音を受け入れることが出来ませんでした。自らのこ
の世の権力維持のために、その機会を永遠に失ってしまったのです。<その曽祖父同様、ヘロデ家系最後の人
物、すなわち、ここに登場するヘロデ・アグリッパ二世もまた、「この世の権力に顔を向けて生きる生」、換
言すれば、時代に迎合する政治的野心のために生きる生を選んだことが原因で、使徒パウロの告げ知らせる神
に起源する「新しい人間の再創造」の出来事を告げる「福音」との出会いの絶好の機会を永遠に見失う>ので
あます(土戸清)。権力に心を売った者の悲劇と言ったらよいのでしょうか。厳しく悲しい現実です。
・表敬訪問にカイサリアにやってきたアグリッパ王とベルニケがカイザリアに何日も滞在していたので、フェ
ストゥスは、前任者のフェリックスが獄中にのこしていったパウロの一件を解決する絶好の機会と判断しまし
た。フェストゥスは、ユダヤ人である大祭司たちや長老たちがパウロに死刑を求めている訴えは、ローマ法に
基づいて却下しました。そしてローマ皇帝に上訴しているパウロを速やかにローマに護送したいと考えていま
したが、ローマ皇帝への上告書に何と書いたらよいか迷っていました。そこでフェストゥスは、アグリッパか
らパウロのローマ皇帝に対する上訴に関して一緒に送る上告書に書く内容の示唆を得ることができるのではと
考えたのです。何故ならアグリッパは大祭司を任命する権限を持っており、さらに神殿を監督する立場にあり
ましたので、当然ユダヤの社会と宗教問題に精通していると思ったからです。そこで、アグリッパに、パウロ
の問題を持ち出して、自分がこの件にどう対処してきたかをかいつまんで話します。14節から18節にそのこと
が記されていますので、もう一度読んでみたいと思います。<ここに、フェリックスが囚人として残していっ
た男がいます。わたしがエルサレムに行ったときに、祭司長たちやユダヤ人の長老たちがこの男を訴え出て、
有罪の判決を下すように要求したのです。わたしは彼らに答えました。「被告が告発されたことについて、
原告の面前で弁明する機会も与えられず、引き渡されるのはローマ人の慣習ではない」と。それで彼らは連
れ立って当地へ来ましたから、わたしはすぐにその翌日、裁判の席に着き、この男を出廷するように命令し
ました。告発者たちは立ち上がりましたが、彼について、わたしが予想していたような罪状は何一つ指摘で
きませんでした>。
・フェストゥスは、祭司長や長老たちが<パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、
死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです>
(19節)と言って、パウロがユダヤ人に訴えられている問題の核心に触れています。そして、自分には<こ
れらのことの調査の方法が分からなかったので、「エルサレムへ行き、そこでこれらの件に関して裁判を受
けたくないか」と(パウロに)言いました。しかしパウロは、皇帝陛下の判決を受けるときまで、ここにと
どめておいてほしいと願い出ましたので、皇帝のもとに護送するまで、彼をとどめておくように命令しまし
た>(20,21節)と、アグリッパに説明しているのです。
・そこで、アグリッパがフェストゥスに、「わたしも、その男の言うことを聞いて見たいと思います」と言
うと、フェストゥスは、「明日、お聞きになれます」と答えます(22節)。すると<翌日、アグリッパとベ
ルニケが盛装して到着し、千人隊長たちや町のおもだった人々と共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令
でパウロが引き出された>(23節)のです。ここで「盛装」と訳されている原語(ファンタシア)は、「誇示
」「みせびらかし」のほか「虚飾」という含みもある言葉です。カイザリアには5人の千人隊長が指揮する
軍団が常駐していたと言われます。「町のおもだった人々」は、「カイサリアの都市の名望家、評判のよい
人、指導的人物」を意味しています。これらの人々が、フェストゥスとアグリッパ二世との前に引き出され
たパウロを囲み、パウロの弁明を聞くために勢ぞろいした、と言うのです。
・このようないかにも威圧的な振舞に抗して、今日の箇所に続く26章では、パウロは臆することなく弁明し
ていています。土戸清さんは、<歴史に働く復活の主の御霊の導きを信じる信仰の確信なしに、これらの威
圧的振舞に抗することは不可能である。しかし、歴史に働く神の業を確信する「信仰の人」は、いつ、いか
なる時と所においても臆することはない>と言っています。
・<そこで、フェストゥスは言った。「アグリッパ王、ならびに列席の諸君、この男を御覧なさい。ユダヤ人
がこぞってもう生かしておくべきせはないと叫び、エルサレムでもこの地でもわたしに訴え出ているのは、こ
の男のことです。しかし、彼が死罪に相当するようなことは何もしていないということが、わたしには分かり
ました。ところが、この者自身が皇帝陛下に上訴したので、護送することに決定しました。しかし、この者に
ついて確実なことは、何も陛下に書き送ることができません。そこで、諸君の前に、特にアグリッパ王、貴下
の前に彼を引き出しました。よく取り調べてから、何か書き送るようにしたいのです。囚人を護送するのに、
その罪状を示さないのは理に合わないと、わたしには思われるからです>。
・ここでフェストゥスは、「しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることができません」
と言っています。ここで「陛下に」と訳されている原語は、トー・キュリオーで、ローマ皇帝に「主」という
呼称が使われているのです。この世の権力者であるローマ皇帝を、神と崇めるところのフェストゥスによって
代表されている「時代精神」に迎合する人々の属する領域と、「かつてあり、今もあり、未来もある存在」と
しての神を、われわれの歴史において示すところのナザレのイエスを、自分の「畏敬する神」、「主」と告白
した使徒パウロ。その対比をルカは、本節において明らかに示しているのであります。パウロは神でない存在
を神として崇める勢力の前に引き出されたのです。しかしその結果は、引き出された者の「真の神信仰」それ
自体によって、神でない存在を神と崇める思惟と行為の欺瞞性が、白日のものに晒されるのである。
・私たちは何をもって自分の生涯の願いとしているでしょうか。パウロはイエスの福音宣教によって、神の下
にあってすべての人の自由と愛、皆対等同等に互いに愛し合う者として神に造られていることをの実現を、自
分の生涯の願いとしていたのではないでしょうか。一方フェストゥスもアグリッパも、神でないものを神とす
る権力の虜になっていたのではないでしょうか。その意味でこの使徒言行録の物語は、パウロを裁く側である
フェストゥスやアグリッパがパウロによって裁かれているのではないでしょうか。この世にあって「虚飾」を
捨てて、わたしたちをあるべき者としてあらしめる方の前に謙虚に立ち続けていきたいと願います。