なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(92)

        使徒言行録による説教(92)使徒言行録26:24-32、

・「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」(使徒26:31)。これが、パウロの弁明

を聞いた後、その場を退場したアグリッパ王、ベルニケ、そしてフェストゥスらが話し合ったことです。さ

らにアグリッパ王は、「あの男は皇帝に上訴さえしなければ、釈放してもらえただろうに」(同26:32)と

言ったというのです。これがパウロの弁明を聞いて、フストゥスやアグリッパ王が出した結論です。使徒

行録の著者ルカは、パウロの弁明に対するこの権力者らのこの判断が、まともな判断であることを、この権

力者たちの発言によって示しているように思われます。

パウロの弁明の中心はユダヤ人が自分を捕まえ、殺そうとしていることに対する釈明にあります。かつて

自分がユダヤ教徒として律法を厳守するパリサイ派の一人として、キリスト教徒を迫害していたこと。その

自分がキリスト教徒を迫害する目的で行ったダマスコ途上で復活の主イエスに出会って、回心し、キリスト

教徒になって、ユダヤ教の割礼や律法をないがしろにしているというので、ユダヤ人たちから自分が迫害を

受けていること。けれども、キリスト教ユダヤ教と相対立するものではなく、キリスト教徒たる者は、ユ

ダヤ教と同じ神を拝しているのであり、救い主なるキリストは、旧約の預言の成就として到来したというこ

とが、パウロの弁明の骨子であります。そのような宗教の問題にこの世の権力者が介入すべきではないとい

うのが、使徒言行録のパウロの主張であり、この主張は使徒言行録の著者ルカの主張でもあります。

・けれども、「あの男は、死刑や投獄に当たるようなことは何もしていない」(使徒26:31)ということは、

彼らがパウロの語ったことを受け容れたわけではありません。むしろ彼らはパウロの弁明を聞いて、パウロ

の語ることについては、無理解であったようです。ローマ総督フェストゥスは、パウロの弁明を聞いていて、

その途中で大声でこう言ったというのです。「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくな

ったのだ」(26:24)と。このところは田川訳でみますと、「お前は気が狂っている、パウロよ。博識がお

前を狂気に追いやっているのだ」と訳されています。パウロの語っていることを聞いて、フェストゥスは、

パウロは気が狂っていると見たというのです。おそらくフェストゥスにとって、パウロが弁明の中で語った

死人の復活などあり得ないことで、それを信じるのは狂気の沙汰だと思われたのでしょう。そのようにパウ

ロを気が狂っているとみたフェストゥスには、パウロが弁明において語ったことがほとんど全く理解できな

かったのではないかと思われます。ただ、パウロが死刑や投獄に当たることは何もしていないということは

よくわかったのでしょう。

・一方、アグリッパ王はユダヤ人でしたので、フェストゥスのように、パウロの語っていることが全く理解

できなかったわけではありません。フェストゥスには、「フェストゥス閣下、わたしは頭がおかしいのでは

ありません。(「狂ってはおりません。フェストゥス閣下。」)真実で理にかなったことを話しているので

す」(25節)と言った後、パウロはアグリッパ王に向かってこのように語っているのです。<王はこれらの

ことについてよくご存じですので、はっきり申し上げます。このことは、どこか片隅で起こったのではあり

ません。ですから、一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預言者たち

を信じておられますか。信じておられることと思います」(26,27節)。

・この場面におけるパウロの弁明は、権力者の前に引き出されて弁明が許された人の発言というよりは、誰

も恐れることなく、自分の信じるところを大胆に証言している証人の発言と言えるでしょう。ですから、パ

ウロはローマ総督フェストゥスに対しても、アグリッパ王に対しても、総督や王という身分を超えて、自分

と同じ対等な一人の人間に対する関わりにおいて語り掛けているように思われます。アグリッパ王がユダヤ

人の一人として当然旧約聖書に通じているばかりではなく、イエスの死と復活についても、既によく知って

いる筈だから、自分と同じように、これを信ずることが出来る筈だ、というのです。<アグリッパ王は単な

る好奇心から、パウロに会ってみたいと思ったに過ぎなかったのですが、パウロの方では、「あなたは預言

者を信じていますか」と問い返しつつ、相手の良心に迫ったのです。そして「信じておられることと思いま

す」という言葉を重ねて、相手に代わって答えることによって、王自らの所信を表明すべてきことを、促し

たのであります>(高橋三郎)。このようなパウロの問いかけに対して、アグリッパ王は、「短い時間でわ

たしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」(28節)と答えたと言われています。このことは、

アグリッパ王が、パウロの語り掛けを、自分をキリスト信者に導こうとする説得として聞いたということを

示しています。

・それに対して、パウロは、「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりではなく、今日この話を

聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれて

いることは別ですが」(29節)と応えて、その陳述を結んだのです。

使徒言行録では、公衆の面前で行ったパウロの弁明としては、これが最後のものです。この後、パウロ

ローマへの護送を示す旅行記事が続いて、パウロがローマに到着します。そして、パウロのローマでの宣教

活動を記して使徒言行録は終わります。

パウロエルサレムで逮捕された次第を語っている21章に続いて、22章からここまでに、パウロの5つの弁

明が記されており、その一つ一つを私たちは学んできたのですが、このパウロの弁明には使徒言行録の著者

ルカの考え方、その信仰観が色濃く反映されていると考えられます。とすれば、ルカはパウロの弁明を通し

て何を訴えようとしているのでしょうか。

・ルカが使徒言行録を書いたのは80年代とされています。ちょうどローマ皇帝ドミチアヌス(81-96年)に

よるキリスト教徒への大迫害が始まろうとしていた時期です。パウロの弁論において、ルカは、ローマの官憲

であるフェストゥスがパウロを引き取って殺そうとするユダヤ人に対して公平で節度ある態度を取っているよ

うに描いております。このことは、歴史的な事実であると共に、80年代のキリスト教徒に対するローマの官憲

の示すべき態度として、ルカが求めていることでもあるのです。キリスト教徒は決して法秩序を乱す者ではな

いので、ユダヤ教徒との神学論争に官憲は介入すべきではないという主張をルカは繰り返ししているのです。

・<しかし、この使徒言行録は、キリスト者にも読まれることを意図していた以上、ルカは同信の友にも呼び

かけようとしているのではないでしょうか。その内容は、内と外から迫って来る敵対者に、こう対応すべしと

いう範例を、パウロの弁明という形式によって、示すことを意図したと察せられます。それをひとことで要約

するとすれば、彼はローマの統治下に、キリスト信徒として存立しうる場を、確保すべく努めたのでしょう>。

高橋三郎さんは、このルカの<意図と洞察が、いかに卓越したものであったかということは、その後間もなく

世に出たヨハネ黙示録とこれを比較するとき、歴然たるものがある>と言っています。

・そして<あの黙示録では、見者ヨハネはローマを「大淫婦」と呼び(17:1,5,15,16,19:2)、血に飢えたそ

の迫害の嵐の中にある信徒に向かって、殉教の死に至るまで耐え忍ぶべきことを勧めた。ここにおいては、世

の終わりは目前に迫っているのであって、この都ローマが審かれて姿を消した(18:21)のち、新しい神の都

が地に成る時が(21章)待望されているのであって、歴史が以後長く続くという事態は、考えられていない。

・これに反して、ルカは「教会の時」が以後なお長く続くことを、見通していた。その故にこそ、彼は福音書

に続いて、この歴史書の執筆に着手したのであり、襲いきたるユダヤ教徒と、ローマの官憲の迫害下にある信

徒のために、なおも存立の場を確保すべく、努めたのである。その後の歴史的展開は、疑いもなく、ルカのこ

の洞察の正しさを実証した>と。

・高橋三郎さんはこのように言っていますが、このことは、先ほども触れましたように、パウロの証言の真実

さという前提において言えることではないでしょうか。フェストゥスやアグリッパ王の前でも、妥協すること

なく、自らの信じることを大胆に言い表しているパウロの証言があって、殉教を回避できない黙示録的な道と、

キリスト者の存立の場を確保していくルカ的な道があるということを見失ってはならないと思うのです。真実

な証言なしに、ただキリスト者の存立の場の確保ということが先行してしまうときに、私たちは戦時下の日本

基督教団の過ちに再び陥らざるを得ません。その意味で、ルカが努力したことは大切なことではありますが、

また危険な面も持ていることを十分意識して、私たちにとって、信仰者としての存立の場である船越教会とい

う場が与えられていることを感謝すると共に、自己目的化した教会としてではなく、イエス・キリストの福音

を証言する場としての船越教会が存立し続けていくことに心を砕いて行きたいと願うものです。