なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(523)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(553)復刻版を掲載します。2010年5月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(553)[Ⅺ-31]2010・5・2発行)復刻版

 25日の日曜日の午後田園都筑教会の第一種教会建設式があり、田園都筑教会のA牧師に以前調べ物でお世話

になったこともあり、出席しました。司式はI議長でしたが、田園都筑教会の関係教会である田園江田教会、

田園調布教会から以外には、他の出席者は殆んど私だけでした。そういうこともあってか、当日A牧師から横

浜地区を代表して祝辞をと言われ、お断りできませんでした。私は田園都筑教会が所在する港北ニュータウ

ンについての小さな思い出を話しました。ニュータウンの造成が終わった頃、ニュータウン内にある小高い

丘の上に、港北ニュータウンの建設に関わっていました義理の兄に連れて行かれ、ニュータウンはこうなるの

だと周囲を見渡しながら説明を受けたことがありました。その思い出を話し、ニュータウンの伝道に頑張って

くださいと申し上げました。それと共に、田園都筑教会の建設式と同じ時に(4月25日午後3時)沖縄の県民大

会が開かれていることは、私には印象深く思われること、ニュータウンの住民の中にも色々な痛みを持つ方が

いるだろうから、そのような方々に開かれた教会となってくださいと申し上げました。教会の方のお話しです

と、田園都筑教会は田園江田教会の開拓伝道から生まれた教会です。田園江田教会が40周年になったときに始

めたそうです。田園江田教会は田園調布教会が40年の時に開拓伝道から生まれた教会だそうです。田園調布教

会は、今から80年前にやはり開拓伝道から始まった教会だそうですので、親教会(田園調布)子(田園江田)

孫教会(田園都筑)という関係です。しかも選ばれた場所は、三つとも中流上の生活をする人たちが多いとこ

ろです。日本の教会の開拓伝道の典型的な形ではないでしょうか。田園都筑教会の建設式が終わって、私は、

沖縄の県民大会に呼応して行われた千駄ヶ谷の明治公園でのキャンドルの人文字(NO BASE OKINAWA)集会

に向いました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から発言がありました。4月25日の沖縄県民大会はメヂィアでも取り上

げられているが、各地でそれに呼応して開かれている集会はほとんど取り上げられていない。アメリカ兵によ

イラクでの悲惨な映像をテレビで流した。銃を乱射し、地獄のような状況だ。車の中に子どもが2人生き残

っていた。助けた兵士は軍を追われた。今日Sさんとの学びで、「責任転嫁」をする限り、犯した過ちを乗り

越えることができないということを学んだ。アメリカの兵士は乗り越えることができるだろうか。日本も中国

で同じことをした。侵略の悲惨さを反省しない限り、犯した過ちを繰り返すのではないか。 

 もう一人の方の発言がありました。沖縄県民大会に呼応して行われた社民党文化会館の集会に参加した。600

人入る会場は収容しきれず、参加者が外に溢れた。1000人くらい集まったらしい。ある人は「沖縄は10万人近

く集まったのに、こっちは1000人じゃあなー」と言っていた。私も、沖縄に基地を押し付けているヤマトの人

は、沖縄は遠くて、わが身のこととはなかなか感じられないのだと思った。集会後にデモ行進があった。60年

代、70年代にデモに参加したような年配の人たちが多かったので、インターナショナルを歌っていた。デモの

後、明治公園のキャンドル人文字に参加した。1300人くらいの参加者があった。そのキャンドルの人文字は琉

球新に載ったのをインターネットで見た。現場での人文字 NO BASE OKINAWAをヘリコプターから撮ったも

のである。今若い人は、デモで拳をあげてシュプレヒコールを叫ぶことは好まない。キャンドル人文字の参加

者は若い人が多かった。ネットでの呼び掛けで来た人がいたようだ。表現の仕方が若い人は違うのかもしれな

い。教会の伝道も若い人が集まらないのは、若い人が求め表現しようとしているそのあり方と教会の発信が違

うからではないか。ネット社会で、礼拝を映像で流している教会もある。ネット教会ができ、献金も引き落と

しということになるかも知れない。若い人のニーズに応えて、教会がどう変わっていくのか。拳をあげるのを

嫌う若者に対してどう応えるか、私たちの課題である。それにしても、大都市東京で1300人は確かに人数は少

ないが、多くの若者の参加はうれしい。


           「友とその比類のない賜物」     5月2日

 二人の友だちは同じではありません。どの友だちもそれぞれ、私たちのために比類のない賜物を携えていて

くれます。一人の友人に私たちが必要としているもののすべてを期待すると、私たちは絶えずあら探しをする

ことになり、非常に批判的で、その友人が実際に持っているものに、決して満足することはないでしょう。

 ある友だちは私たちに愛情を注いでくれます。また別の友たちは、私たちの思索を刺激し、あるいはまた別

の友だちは、私たちの魂を強めてくれます。私たちの友人が与えてくれるさまざまな賜物を、受け入れられる

ようになればなるほど私たちは、限界はあるにせよ、自分自身の比類のない、賜物を差し出すことがもっと出

来るようになるでしょう。このようにして、友情は、美しい愛のつづれ織りを生み出してゆきます。

  
                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)