黙想と祈りの夕べ通信(525)復刻版を掲載します。2009年10月のものです。
このところ慌ただしく過ごしています。時々このブログもお休みすることがあると思います。ご了解ください。
黙想と祈りの夕べ通信(525[Ⅺ-03]2009・10・18発行)復刻版
去る月曜日の祝日(12日)に寿の学習会がありました。この学習会は、元々委員会の中で昨年の年末年始の派
遣切りの問題で湯浅誠さんなどが中心に問題提起している貧困の問題が、日本社会の中に広がっている現状から、
寿の活動の今後について一度ゆっくり話し合いをしようでなかいかということがきっかけとなって行われるよう
になりました。どうせやるなら委員会だけでなく、ボランティアの方々にも呼びかけようということで、約40人
の参加者が集まりました。ことぶき福祉作業所のK・Mさんに寿の現状について、寿日雇労働者組合のK・Nさんに
野宿者の現状について、寿活動委員会のHさんに寿のこれからについて発題していただき、その後自由な話し合
いを行いました。話し合いの中で印象に残る発言が、比較的若い人からありましたので、その報告をしたいと思
います。一人の方から、ネットカフェ難民と言われるように、今は若い20代、30代の人が200万以下の年収しか
ないような生活を強いられている状況であることを考えると、そういう今の社会を作ってきた団塊世代は食い逃
げ世代と言えるのではないか。そういう意味で、50代以上の人たち、特に団塊世代は若い20代、30代にとって敵
ではないかと思う。そういう問題が現にあるのではないか。そういう趣旨の発言でした。それに対して、茅ヶ崎
で野宿者のシェルターの職員として働いている方が、若い世代と50代以上の世代を対立的にみるのではなく、50
代以上の人たちの中にも野宿を強いられている人も沢山いるのだから、若い者も年を重ねている者も貧困を強い
られている人が繋がって、この社会を変えていくことが大切なのではないかという趣旨の発言をしていました。
私はこの二人の発言を聞きながら、どちらの視点も大切なのではないかと思っていました。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。性差別委員会の雑談の中で、ある牧師会で社民
党の福島瑞穂党首は女でベラベラ喋るので嫌いだと言った年配男性牧師がいたことが話題になった。まるでパウ
ロさんみたいと笑ってしまった。キリスト教や教会の中にはまだまだ女性差別があるように思う。一人の女性牧
師は第2子を身ごもって、第1子の時には産休がとれたが、第2子のときにはその教会の担任教師を辞めるよう
にと言われ、辞めたという話が出た。別の女性教職が男性教職と違って他教会から招聘がほとんど来ない。これ
も女性教職に対する教会の姿勢が出ていて性差別につながっているのではないかと話していた。又夫婦で牧師の
ペアーでも、男性が中心に考えられ、同じ牧師である立場でも牧師の奥さんと言われるという。教区でも教区総
会に託児をして欲しいと要望を性差別委員会から出しているが、受け入れられないでいる。女性教職に対する配
慮に欠けているように思う。当教会では以前性差別について共に考える機会を持つことができたが、新しいメン
バーも加えられているので又性差別の学びをし、教会の中で対等な関係を確認していきたいと思う。
別の方の発言がありました。今の話を聞いて、神学校の中でも女性に対する差別を学んできた。女性教職が正
教師になっても、招聘する教会がなく、無任所教師でいる場合が多い。自分は神学校では差別を感じなかったが、
現実の社会や教会では差別がある。先週叔父の法事があり、牧師の言葉に対する批判があるのを聞いて、自分も
これから牧師の一人として語っていかなければならないので、考えさせられた。性差別もそうだが、一人一人が
大切にされる関係をつくっていきたい。
もう一人の方からの発言がありました。10月に入り、なんとなく疲れがとれないで、年齢を感じていたが、家
族や趣味の集いの人から力をもらって元気を取り戻している。
「教会を信じる」 10月18日
教会は信仰の対象です。使徒信条で「わたしは・・・父なる神を信じます。またその独り子、イエス・キリストを
信じます。・・・・聖霊を信じます。聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠のいのち
を信じます」と祈ります。私たちは教会を信じるのです!
使徒信条は、教会が父と子と聖霊なる神を信じるのに役立つ組織であるとは言っていません。そうではありま
せん。私たちは、神を信じるのと同じ信仰を持って教会を信じるように、呼びかけられているのです。
神を信じるよりも教会を信じることのほうが困難に思われることがよくあります。けれども、神を信じること
を教会を信じることから引き離してしまう時にはいつも、私たちは不信仰者になってしまいます。神は私たちに、
私たちと共なる神となってくださる場所として教会を与えてくださいました。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)