黙想と祈りの夕べ通信(524)復刻版を掲載します。2009年10月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(524[Ⅺ-02]2009・10・11発行)復刻版
10月8日の夜に教区の三役と主事の方々を迎えて、役員と対策委員に教会員の陪席者が数名加わって話し
合いの時を持ちました。この会は教区の常置委員会の方からの申し出で開かれたものです。内容は教区執
行部としては北村慈郎教師に対して教師退任勧告が常議員会からだされ、昨秋の教団総会でも退任勧告の
撤回を求める議案が三つとも否決されて、退任勧告が教団総会でも確認されたことになるので、勧告に従
うように北村慈郎教師と紅葉坂教会に伝えて、話し合うということでした。私と教区執行部との話し合い
は以前に行われていましたので、教区執行部としては今回紅葉坂教会と話し合いたいということでした。
当日は、司会をHさんにお願いしました。この会の録音を取ることの承認を得て、Hさんが開会祈祷をし、
まず議長、副議長、書記の三人から、お話を伺いました。I議長は、教憲教規では未受洗者に開かれた聖餐
は認められていないので、勧告に従ってそういう聖餐執行は止めて欲しいということでした。T副議長は、
紅葉坂教会の8条削除した規則は教団の同意を得ていないで返戻されているので、教団の教会である以上
同意されていない規則を一個教会である紅葉坂教会が総会で承認していても、それに従って開かれた聖餐
を執行するのはおかしいということでした。F書記は、今も実際に未受洗者に開かれた聖餐を執行している
のかということでした。
この三人の発言の後、話し合いに入りました。紅葉坂教会の規則が教団から教区に返されてきたときの事
実確認の発言がYさんからありました。その時の教団総幹事のTさんの名による教区議長宛の文書には、聖餐
にについて神奈川教区では宣教委員会で取り上げて結論が出ていないとうことなので、紅葉坂教会の規則は
教区に返すとうことでしたので、まず聖餐についての話し合いをすべきではないかということでした。神奈
川教区としては、宣教委員会で以下のような答申が出ていること。〔ぜ??垉擇咫嵳鳥倞??圈廚稜羯舛髻
現在実施している教会については、その決定に至る経緯を考慮しつつ、各教会の宣教的、教会形成的取り組
みを尊重する」。◆崟算舛亡悗垢訖棲愿、歴史的研究を、教区の取り組むべき課題として位置づけ、実践
的検証を踏まえた議論がなされる場を早急に設置し、各個教会の形成に資する情報を提供する」。昨年6月
の教区総会で可決された教団総会議案としても「聖餐のあり方について慎重かつ十分に議論する場を教団内
に設置する件」(時間切れ審議未了廃案)があるので。T・Nさんも、北村慈郎教師の退任勧告については、
はじめから十分な審議が行われないまま、結論のみが先行しているので、疑問点についてきちっと答えてく
れるように紅葉坂教会から出した幾つかの文書で一貫してお願いしているが、一向に答がなく、無視されて
きた。以前沖縄教区議長のMさんに、沖縄が教団との間に距離を置くことになった一番の理由は何かを聞いた
時に、対話がないことだと答えられた。今回の北村慈郎教師の退任勧告の問題もまったく同ように感じてい
る。対話を経ないで一方的に退任勧告が出されているとしか思えない。教団総会後、教団議長の山北さんも
教団新報で、常議員会による北村慈郎教師の戒規適用申立の否決を受けて、今後聖餐の問題に戒規をちらつ
かせるやり方は慎むので、公然と開かれた聖餐を主張するもやめてもらいたいという趣旨のことを書いてい
る。その他Uさんから教憲教規の制定の歴史と教会規則準則決定の経緯から、聖餐に関して教憲教規はファ
ジーであること。Sさんからは、教会について信仰告白・教憲教規が基準という固い考え方の教会は、戦後
会派の問題が起こった時に、教団から出て独立している。その後教団に残っている教会は違いを認め合って
きたのではないかと。その他にも発言がありました。最後にT・Nさんから、自分のところに入った情報だと、
北村牧師が戒規適用申立を教師委員会に出され、教師委員会はそれを受理したと聞いているが、教区として
北村牧師を支援して欲しいという要望が述べられた。それに対してI議長は、自分は前教師委員会委員の時も、
もしそういうことが起こったら反対するつもりだったので、個人としても教区としても北村牧師を支えてい
くつもりだという、心強い言葉をいただいて、話し合いを終えました。
今後どうなるか分かりませんが、今回このような話し合いの場をもてたということはよかったと思いました。
「キリストにあってお互いを知る」 10月11日
しばしば私たちは聖餐の食卓を囲む前に、まずお互いをよく知り、理解しなければならないと考えます。
キリストの体と血を分かち合う人々が個人的によく知りあった間柄であることは、それなりによいことです
が、聖餐に誠実に参加し続けることを通して、普通、「互いに知己となる」場合の様々な度合いをはるかに
超える、霊的な一致が作り出されます。聖餐に加わり、イエスの死と復活の聖なる神秘に共にあずかる時、
私たちは少しずつ一つの体となってゆきます。こうしてキリストの「内で」私たちは互いに真の知己となっ
てゆくでしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)