なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(201)

 昨日は午後なか伝でI牧師の就任式があり、私も連れ合いも出席しました。就任式は常置委員のO牧師

が司式しました。I牧師も0牧師も女性教職です。就任式後、I牧師とこの3月までなか伝で主任担任教

師をしていたW牧師から発言がありました。その後出席者からのお祝いの言葉がありましたが、なか伝と

寿地区センターの関係から、寿地区センターを支える教区の寿地区活動委員会の責任を持っています私が

最初に指名されました。なか伝はW牧師によって開設された伝道所で、W牧師を支持する信徒によって支

えられてきました。W牧師は、神学校を出てから長年働いてきた住宅街の教会の牧師を辞めて、最初は中

村橋、のちに寿町の中に伝道所を移して、聖書を社会の矛盾が集約して現れている地域に生きる人々の視

点で読み、そこから住宅街の教会を批判し、また住宅街の教会に発信してきました。私は、若いときにな

か伝と同じような地域にあるセツルメントの集会にかかわり、その地域にある教会の牧師として働いてい

ました。若かったこともあって、そこである種の挫折を体験し、30代初めからはW牧師がいうところの

住宅街の教会の牧師としてずっとやってきました。ただ、住宅街の教会で、いつもこの社会の中で最も小

さくされている人からの問いにどう応えていくかという課題をもってやってきました。そういう経験か

ら、なか伝が牧師交替によって、これからも寿の街から発信しつづけるであろう問いかけに、私も住宅街

の教会から応答し、お互いに共鳴し合ってこれからも共にやっていきたいという趣旨のことを、I牧師の

就任式のお祝いとして話しました。なか伝の今後を期待したいと思います。

 さて、今日は、「父北村雨垂とその作品(201)」を掲載します。



                父北村雨垂とその作品(201)

  
  原稿日記「風雪」から(その22)

 禅が観た宇宙観は全体を基体として個の現象を観たものであり、西欧哲学は個を中心として宇宙の在り

様を探求するものでそこに現象を抽象したものそれは西田哲学(中国の中心的思想と近似している)が要

するに個から全えと思向した様に私にはそうした思想として思考せざるを得ない。そして全即ち平等から

差別即ち個えと思考した仏の長子なる禅の得た「道」は個から全えと探求の矢を向けた西欧哲学乃至儒学

との根本的誤差と今一度考え直す要がある。

                            1984年(昭和59年)10月6日

 私が禅の根本思潮をこんとんたる世界つまり現象学的現象世界が吾々人類にとって唯一の世界であり、

その二次的或は三次的現象に吾人なる個が生成すると云った様なその現象世界をそれと観て、それが絶対

的眞理と映じた。それが「悟り」の極致を禅がそれのコミュニケーションとして「無」とし、「空」とし

て不立文字と表白したもの、それを古代中国の識者が二にして一、一にして二なる天、地なる「気」とし

てその気天なる陽の気、地なる陰なる気、この二気なる陽陰を同体とする中庸の論理は正に朱子の手柄と

云えるであらう。それは中庸朝日新聞社刊十六章の(p.80)以下にあるので、それを参考としてここに転

写すべきであるが、私の持時間にさうした余裕が無い様に考えられるので、各自でそれを入手して検討す

ることを求める訳である。次いでのことながらその朱子の思想が彼の先輩陸象山の朱子に影響した事情も

解明されるであらうからでもあり、儒学と老、荘、仏、など三様の思想を巧みに摂取した朱子に敬意を表

明するものである。
                           1984年(昭和59年)10月19日


 島田虎次著『朱子学陽明学岩波新書版でp.45万物一体説は決して宋代程明道によって初めて唱えら

れたものでなく、はやく六朝時代にかの鳩摩羅什(くまらじゅう)の高弟で当時仏教哲学界の第一人者と云

われる僧(そう)肇(じょう)法師(374年頃~414年)が「天地は我と同様、万物は我と一体」と云って居る

し、更に古くかの荘子がその斉物論に於いて「天地は我と並び生き万物は我と一たり」という有名なテー

ゼを主張している。それに僧肇の説は、玄(ふかい)道(みち)の体得は結局妙悟にあり、妙悟は真理そのも

のと一体になることである。眞理そのものと一体になれば、即座に有無(の対立)は(解消)して同じも

のとして観ぜられるならば、直ちに我と彼との差別なくなってしまう(即ち平等)(『肇論』經)槃無名

論)。即ち荘子に於いても僧肇に於いても万物一体とは大小寿天(じゅよう)(時間的大小)有無を垪

(?)無するところにたてられた知的な論理的な命題であった。明道の万物一体説がこれら先人に負う所

なしとは云えないが、多くの宋学反対者はその語が而しながら言葉は一つであってもその性格は根本的に

異なっていることなどはことわることもないが、明道の万物一体は万物一体の仁なのである。荘子、僧肇

の万物一体は人を責任と行動へと駆り立てるよりは、瞑想と諦念へと退かしめるであらう。このところが

私の考えと異なっているが、それ儒家の態度ではない・・・・以下略。