なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(223)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(223)」復刻版を掲載します。  


        黙想と祈りの夕べ通信(223[-14]2004・1.4発行)復刻版

 先日一人の青年が教会を訪ねてきました。インターホーンのところで、横浜キリスト教書店から帰って

来た私と一緒になり、声をかけたところ、伝道師を訪ねてきたということでした。その日伝道師は東京に

出かけていたので、また電話して来てください、と申し上げました。でもその青年は帰る気配ありませ

ん。何か話に来たのなら、私でもよければと言いました。すると、彼は突然「北村牧師は冷たい。以前に

電話の対応でそう感じた。日本基督教団の教会は概して冷たい」と言い出しました。彼を小集会室に案内

して、話を聞きました。小集会室の椅子に座った彼は、「自分はホームレスではない」と言いました。私

がインターホーンのところで、彼をホームレスと勘違いしたと思ったようです。私の態度が彼には拒否的

に感じられたようです。いろいろ彼の話を聞いて見ると、彼は藤沢のある教会に時々出席しているようで

すが、自分は30歳だが、まだ子供である。自分の家族もみな子供っぽい。まだ洗礼は受けていない。教

会の牧師を殴ってしまったこともある。一人の牧師は警察に訴えて、自分は捕まったこともある。もう一

人の別の教会の牧師は、自分が殴ったけれども、警察に訴えはしなかった。彼はキリスト教の教えについ

てもいろいろ話し、この教会では伝道しないのか、桜木町で伝道したらどうかなどと勧めもしてくれまし

た。一時間ほど話して、予定があるのでと言って別れました。別れ際彼が祈って欲しいと言いましたの

で、一緒に祈ってから彼を教会の玄関から送り出しました。先日も電話で全く未知の方から、子供が教会

に泊まり込んでいるのだが、そちらの教会ではないかという問い合わせがありました。いないと答えまし

たが、教団の教会では殆どないと思いますが、教会によっては若者を泊めているところがあるようです。

教会がそのようなことをするのがいいことだとは思いませんが、教団の教会でも、教区や地区としてカウ

ンセラーがきちっと対応できるホームのような施設を備えていて、行き場のない若者を受けとめられたら

と思います。現在の教区や地区では望むべくもありませんが、カトリック教会には、修道院のような形で

何かそのような受け皿があるのではないでしょうか。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。自分はクリスマスが終わるまではと、体

調も万全ではなかったので、綱渡り状態だった。そして終わって家でホットしているところへIさんから

電話で病院を退院したという連絡をもらった。3週間前に本人から入院するという連絡を受けていたが、

その間ずっとあわただしく過ごしていたので、Iさんのお見舞いにも行けず、正直気にかけることも出来

ないでいた。教会員の多い教会には、目こぼれがあるように思う。形だけを組織的にはしたくないが、そ

れでも相互の支え合いができる繋がりが必要ではないか。Iさんから退院の連絡の電話を受けて、忙しさ

にかまけていて、はっとさせられた。礼拝に出席しているときには、交わりがあるが、礼拝に来れなくな

った方との交わりもできるようにしていきたい。加齢が進む中でお互いに配慮していかなければと思わさ

れた。

 もう一人の方が、その日の黙想と祈りの夕べで歌った讃美歌21-120の歌詞、詩篇21編との個人

的な出会いと、この詩編の言葉によって暗闇の恐怖から解放され、洗礼を受けるようになったことを証言

された。

 また、別の方が新約聖書学者のOさんの言われたことを紹介してくれました。Oさんは、ブッシュの信

仰は間違えているということは、自分の個人的な意見としては言えても、聖書から見て間違いだとか、神

から見て間違いだとは言えない、と言われた。聖書や神から見て間違いだと言うことは、それぞれの相対

化=限界を超えて、自分を絶対化してしまうことになるから、それは間違いであると。

 確かにこのOさんの指摘は大切なことだと思います。




           「信頼」(『ルターの日々のみことば』より)

 「わたしはあなたの神、主である」   出エジプト20:2

 すなわち、あなたはわたしのほかに、なにものをもあなたの神としてはならない。このことばはどうい

う意味であり、どう理解したらよいのでしょうか。神とするとはどういうことでしょうか。神とはなんで

しょうか。その答えはこうです。神とは、わたしたちがそこにあらゆるよきものを願い求め、なやみの時

に、そこへ避け場を求めるかたです。ですから、神とするということは、神のみを信頼し、まごころをも

って神を信じることです。ですから、神か偶像をつくるのは、あなたの信頼と信仰だといってよいでしょ

う。もし、あなたの信頼と信仰が正しければ、あなたの神も正しく、もし、あなたの信仰が間違ってお

り、偽りのものであるならば、まことの神はおられません。信仰と神、このふたつは不可分であって、あ

なたの心と信頼のあるところに、あなたの神もあると言えます。

 この戒めの求めていることは、わたしたちがまことの信仰と信頼とをもって、唯一のまことの神に心を

向け、ひたすらよりすがることです。神はこうおっしゃっています。わたしだけがあなたの神である。そ

れ以外のものを求めてはならない。なにか必要があれば、わたしに求め、わたしに尋ねなさい。もし、悲

しみ、悩みにうちひしがれているなら、わたしにしっかりとすがっていなさい。あなたの主であるわたし

は、あなたの心がほかに向けられていないならば、あらゆる悩みからあなたを助け、豊かに与えるであろ

う。
            
                                大教理問答書