なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(417)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(417)復刻版を掲載します。2007年9月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(417[-52]2007・9・23発行)復刻版

 この黙想と祈りの夕べ通信も、9月30日で満8年になります。黙想と祈りの夕べはいつも少人数ですが、私自身

にとりましては、自らを振り返り、神と対話する貴重な時間です。

 先日Mさんが転会しましたK教会の牧師Aさんと、電話で話しました。転会の薦書を送ったので、Mさんのことを

よろしく頼むと言いたかったからです。牧師のAさんは、私が紅葉坂の伝道師から名古屋のG教会に1977年4月に

転任したときに、G教会で私が主任としてはじめて一緒に働いた伝道師です。彼は東神大闘争の時には全共闘

一員でしたが、ただ一人東神大に復学を許されて、東神大を卒業して牧師になった人間です。たまたま名古屋出

身でG教会の青年に彼と中高の同級生もいたりして、私と一緒にG教会に招聘されたのです。当時私が35歳で彼は

20代後半だったと思います。G教会に赴任した時には、私の3人の子どもたちは、一番上は女の子で小学校2年生、

二番目は男の子で小学校1年生、三番目も男の子で3歳半でした。Aさんはよく僕たち家族と一緒に食事をしました。

子どもたちも大変彼になついでいました。G教会時代には3人の伝道師を経験しましたが、子どもたちは小さかっ

たからかもしれませんが、Aさんを一番慕っていました。彼は5年Gで働き、その後T教会に転任し、T教会時代に結

婚し、その後K教会に転任し、数年前に現在の教会の牧師になりました。T教会時代から彼は連合長老会の一員に

加わり、私とは教団の中では対照的な立場にあります。Mさんが東京に転居したときに、近くの教会を紹介して欲

しいと言われ、Aさんが牧師をしている教会を紹介しました。転会の希望がMさんから出たときに、K教会が連合長

老会の教会であるので、未受洗者に開かれた聖餐式をしている紅葉坂教会からの転会者に対してどう対応される

のか、一抹の不安がありましたので、推書を送ったときに、手紙でその旨配慮してくださるようにとお願いして

おきました。電話で彼は心配ないからと言ってくれたので安心しました。
 
 連合長老会は改革派長老主義の教会観に立つ教会で、教団内にあって長老主義のよき伝統を生かして行くとい

う主旨で、戦後教団から合同前の教派の伝統に戻っていった旧日本基督教会に属する教会とは袂を分かち、教団

内に留まった長老主義の教会です。元々は教団政治にはほとんど関わらず、長老主義による教会形成を志す教団

内グループでした。ところが、90年代ごろから連合長老会が福音主義教会連合という70年頃から活動を始めた、

戦責告白、万博東神大問題、教師検定問題、合同の捉えなおしなどに批判的に関わる、いわゆる問題提起者信徒

・牧師及びその教会に対する反対という一点で結びついた伝統を異にするさまざま教会の連合体と一体化して、教

団の政治に関わるようになりました。教団政治に関わるようになった連合長老会の教会の中には、改革派の伝統

としての「み言葉によって改革されるところに教会がある」という理念がもつ批判的な精神を失って、自らを絶

対化し自由な相互批判を好まない傾向が強まっているというのです。Aさんはそのような連合長老会のあり方は元

来の連合長老会の精神からすると、ある種の逸脱であると言っていました。私には、現在の伝道師で一緒に働いた

伝道師は6人目になります。G教会時代は、理念としては共同牧会をとりましたし、私も30代、40代でしたので、

牧師、伝道師と言っても、ほとんど対等な関係をめざしました。紅葉坂に来てからは、私も50代、60代になって

いますし、G教会時代のように対等とはいきませんが、それでも通常の教会の主任牧師、伝道師の関係からすると

対等な関係であろうとしてきたつもりです。Mさんの転会を通して、最初に一緒に働いた伝道師のAさんと、久し

ぶりに話すことができて嬉しく思っています。

         

       「神によって創られたものは聖性を帯びている」     9月23日


 被造界にあって、私たちはどのように生きるのでしょうか。どんな必要(ニード)を

満たすためであれ、どんな目的を達成するためであれ、使ってかまわない「もの」の溢

れた場所として、私たちは被造界と関わるのでしょうか。それとも、何よりもまず、神

が私たちにご自分の測り知れない美しさをお示しになる聖なる場所、秘跡的な現実とし

て被造界を見るのでしょうか。 私たちが被造界を単に“使って”いる限り、そこに

聖なる姿を見出すことは出来ないでしょう。それでは、私たちが被造界にまるでその所

有者であるかのように近づいていることだからです。けれども、私たちを創造された神、

その同じ神によって創造されたものとして、私たちをとりまくすべてのものに関わる時、

また被造界を通して神がご自身を現され、私たちを礼拝と賛美に招いておられると信じ

る時、私たちは、神によって創られたものすべてが聖性を帯びたものであることを認め

ることが出来るようになるでしょう。

        (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)