なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(590)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(590)復刻版を掲載します。2011年1月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(590)[Ⅻ-16]2011・1・16発行)復刻版


 11日に東京地方裁判所で私の仮処分の審尋があり、今回は弁護士から私も一緒に行きましょうと言わ

れて、はじめて裁判所に行きました。審尋は通常の裁判と違い、法廷で行われるのではなく、広い部屋

に何人もの裁判官の席があり、私の申立てを担当している一人の裁判官の前に、私とお二人の弁護士が

裁判官に向って左側に、教団側の弁護士と藤盛総務幹事が右側に横並びに座ってそれぞれが出した準備

書面についての質問を受け、それに答えるという形で進みます。今までの2回の審尋でもそうですが、裁

判官は教団側から出された文書への質問が多く、私の方の文書については「一事不再理」の論理展開が

弱いということを、今回もその前にも指摘されただけでした。一方教団側の文書は、一貫して私の戒規

免職は聖餐という教会の教義の問題であり、裁判になじまないので却下を繰り返しています。政教分離

による憲法から、最高裁判例から、教会の自治から、その切り口は幾つかありますが、主張している

内容は変わりません。私を戒規にかけるように申し立てた申立人小林貞夫常議員による申立書の開示に

教団側は一切応じません。私が開かれた聖餐を執行していることは自明で、それが教憲教規違反だから

というのです。そして審尋の中で明らかになってきているのは、教団教師委員会は申立てがなくても教

師の戒規執行はできるという論理展開をしてきているということです。これは大変おかしなことで、そ

うなりますと教師委員会は自らの判断で誰でも戒規にかけることができるということになってしまいま

す。また、教師の戒規は懲戒処分ではなく、悔い改めであり、北村は全く戒規を誤解していると教団側

は主張しています。えてして宗教の論理の中には、信仰的な言い回しをすることによって、実質的な不

利益や人間の痛みをオブラートに包んでしまって、あたかも宗教教団の考え方が全て正しいという独善

陥りがちですが、私には教団側がそのような独善的な閉鎖的宗教教団の論理によって、私の方の主張を

退けようとしているとしか思われません。裁判官は私の方の主張に立って教団側に手続きの問題を質問

してくれています。私の上告によって常議員会で選任された審判委員の選任方法が不当であることを私

の方では問題にしています。審判委員が選ばれた常議員会では、山北議長が当事者を除いて選任するこ

とを提案したにも拘らず、その提案を退けて、当事者である私も申立人やその賛同者も含めて常議員会

で審判委員の選任が行われました。私の方はその問題を主張していますが、裁判官もその点について教

団側に質問をしました。しかし、教団側は教会会議ではそれも不当ではないと言い張っています。申立

人の小林貞夫常議員しか名前は明らかにしていませんので、賛同者が常議員なのかどうか次回明らかに

することになっています。昨秋の第37合同後22回教団総会では、教団議長が戒規申立てをすることがで

きるという議案を可決しました。そのことについても、裁判官は議長によって戒規申立てされた人が上

告するのが常議員会であるとすれば、訴えた側で上告を受け審判委員を選ぶことになるから、上告の意

味がないのではないかという疑問を提起していました。最近の教団の執行部は、手続き上の公正さへの

配慮もなしに、何が何でも自分たちの立場を押しつけてきて、自分たち以外の立場の者への寛容さが極

端に失われています。

 先日の教区の常置委員会でも、2月総会における私の議員資格が問題になり、結局結論がでずに、改め

て臨時常置委員会を開くことになりました。その際の議論の中で、開かれた聖餐は教憲教規違反だから、

それを止めないで執行し続けるとすれば、教団から出て行ってやられたらどうかという発言をする人が

ありました。こういう発言は神奈川教区形成基本方針の精神からしますと、あり得ない発言ですが、最

近はこの種の発言が目に付くようになりました。そこには一部の人たちの立場によって教団を統制しよ

うとする力が強く働いているように思われます。その一部の人たちとは、神奈川教区にあっては連合長

老会系の教会郡です。横浜指路教会もその一つの教会ですが、例えば指路教会の新しい牧師の就任式に

出席しますと、祝辞などで教区代表の教区議長は付け足しのように最後にまわってきます。最初は連合

長老会議長だとか、連合長老会何々という人が祝辞を述べます。つまり、連合長老会は教団の中にあり

ますが、教団を一つの教会と考えれば、教会の中の教会を形成しています。連合長老会の教会は神奈川

教区の集会よりも連合長老会の集会を優先します。教区の諸教会との交わりよりも、連合長老会の教会

同士の交わりを重んじます。連合長老会系の教会は長老主義の教会で信仰的には海岸教会などが属しま

日本キリスト教会と伝統を同じくします。日本キリスト教会は戦後教団から独立したグループで連合

長老会系の教会は教団に留まり、長老主義の教会形成をしてきました。しかし1980年前半頃までの連合

長老会は教団内にあって長老主義の教会形成は貫きますが、教団政治には関わらないという立場をずっ

ととってきました。ところが1980年代半ばごろから福音主義教会連合や東京神学大学と共に教団政治に

関わるようなりました。連合長老会は原理的に教会形成は長老主義で他を容認しませんので、教団政治

の場においては排他的になります。私たちは連合長老会も教団内で活動することは容認しますが、教団

は合同教会として様々な伝統を大切にしている教会が一つになっているわけですから、自分たちだけの

伝統を重んじ他を排するその行き方は認めることはできません。その意味で教団は、様々な立場・考え

方を認め、対話を通して一つをめざす神奈川教区形成基本方針の姿勢を堅持していかなければ成り立ち

ません。ですから教団という教会は、出ていけと他に対して言う者が出ていかなければならない教会な

のです。そのことをしっかりと踏まえて、出ていけという人たちに、逆に出ていけとは言わずに、自己

相対化による対話の場に立つことを求め続けていきたいと思います。 


           「希望を持って生きる」    1月16日


 楽天主義と希望は、根本的に異なった姿勢です。楽天主義は、天気や人間関係、政治経済などの物事

がよくなることを期待します。希望とは、私たちに約束されたことを神が必ず成就してくださるという

と、そしてそうすることによって、私たちを真に自由に導いてくださると信頼していることです。楽天

主義者は、将来の具体的な変化について語ります。希望の人は、人生のすべてがよい御方のみ手の中に

あると知り、かつ信頼してこの瞬間を生きます。

 歴史上の偉大な霊的生活のリーダーたちはみな、希望の人でした。アブラハムモーセ、ルツ、マリ

ア、イエス、ルーミー、ガンジー、ドロシー・デイ。これらの人々はみな、未来がどのようになるかを

正確に知ることを必要としませんでした。彼らはただ心の中に一つの約束を抱いて生き、その約束によ

って未来へと導かれていたのでした。希望を持って生きようではありませんか。


                    ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)