なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(591)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(591)復刻版を掲載します。2011年1月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(591)[Ⅻ-17]2011・1・23発行)復刻版


 いよいよ私の地位保全仮処分命令申立の裁判は終わりを迎えようとしています。先日対策委員会が開か

れ(20日)、1月26日に行われる多分最後の審尋のために、お二人の弁護士が今までの私の側の主張をまと

めて準備書面を書いてくださったものを確認しました。今回教団側からどういう準備書面が出てくるか興

味深いところです。なぜなら、上告審判委員の選出に関して、私への戒規申立賛同者6名の名前を明らかに

できないかとの裁判官の質問に、教団側島林弁護士は「明らかにできない」と答え、「自律性が重んじら

れる宗教法人の特殊性からくる。特に、教憲・教規というその宗教法人の根幹に明らかに違反している場

合に、中立公正ということがどれだけの意味があるのか」と言っているからです。つまり私の開かれた聖

餐執行は教憲・教規違反なのだから、審判委員を選ぶ常議員会に申立者及び賛同者が加わっていても何ら

問題ではないというのです。「宗教法人の特殊性から、中立公正の要請が一般法と同じく働くとは考えら

れない」という島林弁護士に対して、裁判官は「その点、なかなか理解できないので、反論の書面を出し

てほしい。賛同者6名が常議員か(常議員会の議決に加わっているか)、戒規申立権者と上告審判委員の

選出者が同じであっても良いという理由について、書面で明らかにしてほしい」と申し入れています。こ

の裁判官の申し入れに教団側がどういう準備書面を出してくるかです。上記教団側弁護士の審判委員選任

に関する発言は、中世の教会の宗教裁判の論理に近いと思います。宗教集団の中にも人権侵害に価する問

題が出た時には一般法の入り込む余地があると私には思われるのですが。なかなか微妙な問題であること

は事実ですが、教団側の論理で行くと、宗教集団内部で何でもできるということになる危険性があります。

教団側は随分無理な論理を立てたと思いますが、それをどう書面で書いてくるのかが興味あるところです。

 さて私の免職問題で教団内諸教会の信徒の中にもいろいろな波紋が起こっているようです。ただ信徒の

方々までは情報が全く伝わっていないところがあって、たまにこのことを聞いて私の方へ直接問い合わせ

の電話があります。先日も電話の感じでは年配の女性の方から電話がありました。相当長電話になりまし

たが、その方から聞かれることにはきちっと答えるようにしました。その方は、自分は聖餐が開かれてい

るか閉じられているかはよく分からないが、神さまを信じているのだから、それぞれ信じるところに従っ

て誠実に歩んでいるなら、お互いに助け合うのが本当ではないかと思う。だから、先生が戒規免職処分を

受けたということが、どうしてなのか。聞くところによると昨秋の教団総会も200対160くらいの比率で先

生を支持する方も多いのに、どうしてそうなるのか分かりません、と言うのです。私は、200の側が一枚

岩とは思えませんが、この立場の人たちは自分たちと違った考え方を認めて対話によって一致をめざし求

めてゆくのではなく、違った考えをする人を排除しようとするので、なかなか難しいということを話しま

した。すると彼女は、それはファッショですねと言って、信徒も自分で問題を理解し、自分の考えを持っ

て、しっかりしなければいけませんね、とおっしゃっていました。その方は、電話をかけてこられたとき

の私に対してもっておられたイメージとは違って、私が静かに落ち着いて問題の所在を説明していました

ら、先生は随分冷静な方ですねとほめてくれました。また、先日寿地区活動委員会に行きましたら、その

中で、寿の炊き出しに来ておられる方が、自分の教会の祈祷会で北村先生のためにお祈りしたら、その教

は開いた聖餐を認めませんので、祈祷会が終わってから、他の出席者に総すかんをくったという話を聞き

ました。それでもその方は頑張るとおっしゃっていたというのです。

 人によっては、私の免職問題は教会の中に波風を起こすもので迷惑だと思われる方もあるかも知れませ

ん。しかし、上記のような信徒の方のこと知ったり聞いたりすると、この私の免職問題が派生的に信徒の

自立を促す働きをしているように思えてきます。私を免職処分にした方々にとっては教団内に予期せざる

動きを起こす結果になったと、苦々しく思っているかも知れません。けれども、私を免職処分にした方々

が好む伝道による教勢の拡大は、信徒の自立抜きには絵に描いた餅に過ぎません。「議案ガイド」によっ

て思考停止した信徒では日本の地にイエスの福音が土着するとは思えないからです。それこそ日本の社会

がファッショ的になれば、戦時下の教団やキリスト者と同じように護教の中に閉じこもってしまうに違い

ありません。教団のファッショ的な体質に対して、信徒がしっかりしなければなりませんねと電話で言わ

れた女性の方に、私はエールを送りたい気持ちで一杯です。 


           「コッュニティー、心の質」   1月23日


 コミュニティーという言葉には、いろいろな意味があります。消極的な意味もあります。コミュニ

ティーは、安心して一緒にいたり、食事を分け合ったり、共通の目標や喜びに満ちたお祝いを共にする

ことなどを私たちに思い起こさせてくれます。コミュニティーはまた、分派的な排他性や内輪の言葉、

自己充足的な孤立やロマンチックな愚直さを呼び起こします。しかしながら、コミュニティーは何より

もまず、心の質なのです。それは、私たちが自分のためにではなく、お互いのために生きているという

霊的な知識によって生じます。コミュニティーは、自分の利益よりも他の人々の利益を大事にするとい

うことを受け入れる力がもたらす実りです(フィリピ2:4参照)。したがって、問題となるのは「どの

ようにコミュニティーを作ることが出来るか」ではなく、「与える心をどのように伸ばし、養い育てて

いくか」なのです。

 
                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)