なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(586)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(586)復刻版を掲載します。2010年12月のものです。


          黙想と祈りの夕べ通信(586)[Ⅻ-12]2010・12・19発行)復刻版


 主の降誕の祝福が皆様の上に豊かにありますように。今回は私の裁判の状況をみなさんに知っておい

ていただきたいと思いますので、そのことを中心に書きました。みなさんの週報ボックスに入れさせて

いただきます。この黙想と祈りの夕べ通信に加えて、支援者への「裁判報告その1」と教団ジャーナル

風に依頼されて書いた文章を添付しておきます。

 さて10月末に開催されました教団総会から2ヶ月が経とうとしていますが、私の免職に対して全国抗議

署名の活動もはじまっています。この全国抗議署名の活動の前に大阪や兵庫を中心にして独自の抗議署名

活動が行われており、教団に送ったものの写しを私の方にも送っていただいています。その他に手紙によ

紅葉坂教会と私に対する励ましと支援のメッセージをいただいています。教団総会直前から現在まで

(12月18日)に送られてきましたものを、お知らせします。教会名が先に書いてあるものは抗議文または

抗議署名、個人名が先に書いてあるものは励まし、支援の手紙または個人による抗議です。

(教会名、個人名省略)

 裁判の方は、12月17日に教団側の弁護士と私の依頼しておりますお二人の弁護士が裁判所に呼ばれ、審

尋が行われました。その内容はまだ報告を受けていませんが、その日のために教団側が用意した準備書面

を読みました。その準備書面によりますと、教団側によれば、私の免職はあくまでも政教分離による教団

自治の範囲の問題であるという主張を展開し、従って「法律上の訴争」には該当しないとして、私の訴

えを却下しようとしています。この論理によりますと、私を免職にするために、信仰職制委員会が教師の

戒規は教会役員会か教区の常置委員会が申立をできるとした先例集96の信仰職制委員会の答申を、自ら

相対化し、それを覆すような形で、申立てについては教憲・教規に明記されていないので誰でもできると

いう答申を出しました。それに基づいて、教師委員会は戒規申立て受理に関する内規を改定し、一常議員

信徒から出された私への戒規適用申立書を受理し、教師委員会の中に調査員会をつくり、私を戒規免職と

しました。その後の審判委員会の選任もその結論も、みな教団の中で形式的には手続きをふんでいるので

瑕疵はないということになります。また、教団側の主張では、戒規に対する私の理解が全く誤解に基づい

ているという主張を展開しています。戒規は悔い改めの促しで、悔い改めれば再び教団正教師への復帰が

できるのだから、一般的な懲戒処分とは違うというのです。もし戒規を悔い改めであると言うのであれば、

私が「福音と世界」2011年1月号に書きましたように、「もし私に悔い改めを求めるのであれば、私の言

い分を聞き、私に誤りがあるならば執拗に私を説得すべきではないかと思うのですが、教師退任勧告から

免職決定に至る間にそのような教団からのアクションは一切ありませんでした」。通常教会において戒規

の問題は「訓練規定」という教会法に定められています。例えば日本キリスト改革派教会の「教会規定第

2部 訓練規定」は19章135条に及ぶ細かな条文からなっています。その中の第8章に「教師に対する教会

裁判の手続きに関する特別規定」というのがあります。教団には戒規の細かな手続きに関する規定はほと

んどありません。ですから、常議員会で審判委員を選ぶ時も、私も申立人7人の信徒常議員も議決に加わ

った形で選出されました。教団側の論理によりますと、これら一切形式的にも間違っていないということ

になります。これでは、宗教教団(思想集団も同じ)内部でどんな人権無視が行われても、それを正す手

段、方法はその宗教教団内部にはないことになってしまいます。教団側の準備書面の論理でいきますと、

そういうことになってしまいます。

 裁判官がどう判断するか見守りたいと思います。 


            「山頂の体験」    12月19日


 ある瞬間、私たちの内ですべてが統合されている実感、また私たちを取り巻くものとも完全に一つとな

る体験をすることがあります。このようなことは、山の頂に立ち会って、その見晴らしに心奪われる時な

どに起こるでしょう。子どもが生まれるのに立ち会ったり、友人の死に直面する時にも、教会での礼拝中

や静かな部屋で祈っている時にも起こるでしょう。けれども、それがいつどのように起ころうとも、私た

ちは心の中でつぶやきます。「これだ・・・今まで望んでいたことがすべてここにある」。

 これは、ペテロ、ヤコブヨハネがダボル山の頂上で体験したことです。その時彼らは、イエスの顔の

様子が変わり、その衣が真白に輝くのを見ました。彼らはこの時が永遠に続いて欲しいと願いました

(ルカ9:28-36参照)。これが、時の満ちる体験です。こうした瞬間が私たちに与えられているのは、神

が遠く離れ、すべてが空虚で無駄に思われるような時に、私たちがそのような瞬間を思い出すことができ

るためです。このような体験は、真の恵の瞬間です。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)