なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(587)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(587)復刻版を掲載します。2010年12月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(587)[Ⅻ-13]2010・12・26発行)復刻版


 私の戒規免職に対して、教団の諸教会・伝道所、信徒・教職の方々から支援と励ましのお手紙を沢山い

ただいています。24日の燭火讃美礼拝が終わって、25日に届きました一人の信徒の方からのお手紙を読ん

で、大変感動しましたので、そのお手紙を紹介させていただき、皆さんにもこのような教団の信徒の方が

いらっしゃるということを知っていただきたいと思います。
 
 クリスマスおめでとうございます。

 突然ですが…、兵庫県の山中にある小さな教会から、北村先生に応援メッセージをおくります。

26年前にこの教会に引っ越してきました。礼拝は8名程、創立当初からの未受洗の老婦人3名が黙々と守っ

てこられます。何十年かの後に、他所から移り住んだ人が受洗し、役員をされていました。聖さんの時、

教会をずっと支えてきたお祖母さん達は、そのままで、他所からきた者だけが、前に進み、ガウンを着た

牧師から配さんされるのを苦痛に感じる様になってきました。数年後、役員会でオープンな聖さん式に移

行する事を決定し、以来そのまま続けています。

 今日は次のことだけ伝えたくて汚ない字で、カードをおくりました。

 10年以上前、ケア・マネージャーの研修で、診療所の医師が教えてくれたことです。

『皆さん、リハビリテーションって良く言いますが、あれは動かなくなった手や足を動かす事ではないん

です。人間の復権という意味です。皆さんは、ジャンヌ・ダルクをご存知ですか? フランスで魔女裁判

にかけられて火あぶりの刑にされたのですが、このジャンヌ・ダルクを魔女ではないとした裁判、これが、

"リハビリテーション裁判"と呼ばれています。リハビリテーションという言葉が公に使われた初めです』

と教えて貰いました。それを聞いた時はとても感動して「教会の人達は、この事を知っているのだろうか? 

機会があれば、リハビリテーションと言われているこの言葉の始まりを、教会の人達と共有したい」と思

ってきました。北村先生のことを知り、この事を教団の信徒の人達皆と共有したい思いです。血行不良で

硬くなってしまった教団をほぐしほぐししてリハビリをしなければと思います。

 教団ジャーナル"風"見出に、沖縄を切り捨て、教師を切り捨て、そして教団の半分を…とありましたが、

それ以前に、信徒を切り捨て、青年たちを切り捨て、農村、漁村の教会を切り捨て、数字の魔力の前にひ

ざまずいてきた、日本キリスト教団の在り様が、はっきりと見えてきます。農村に居ると、地球の温暖化

の異変が刻々と迫ってきているのが、よく分かります。「教団は何を言っているんだ。地球がこんなにお

かしくなっているのに、オープンやクローズやと言っている場合やないやろ!」これが私の正直な気持です。

「微力ではあっても無力ではない」との希望の言葉に導かれて、共に祈り合って行きたいと思います。

身体を大切になさってください。

                               2010,12,22,    ○○○○

 この方のお手紙が届いた数日前に、関西の有志で発行しています「教会と聖書」という機関誌が10冊ほど

届きました。「北村慈郎先生応援特集号外」として発行されたものです。私の戒規免職に対して、それぞ

れの立場から文章を載せてくれています。執筆者は、桑原重夫さん(高槻向山伝道所牧師)、田川建三さん

新約聖書学者)、森なおさん(兵庫教区主事)、菅澤邦明さん(西宮公同教会牧師)、西宮公同教会幹事

会、小林聖さん(豊岡教会・城崎教会牧師)、市川哲さん(篠山教会牧師)、千葉宣義さん(八幡ぶどうの

木教会牧師)、後藤聡さん(梅花教会牧師)、新免貢さん(宮城学院女子大学教員)、西宮門戸教会役員会

です。私の戒規免職問題は愚かな教団政治によって引き起こされた出来事ですが、この問題を通して、キリ

スト教に関わる者が自分の問題としてその思いを書いてくださることは、自分としては当初には想定外だっ

た贈り物に思えて、大変嬉しいことです。是非皆さんにも、上記のお手紙を下さった方の思いを共有してい

ただければ幸いです。


           「和解させていただいた私たち」  12月26日


私たちはどうやって和解に向けて働いたらよいのでしょうか。第一に、そして何にもまして、キリストによ

って神が私たちをご自身と和解させてくださったことを、私たち自身の確信として深めてゆくことです。こ

のことを理性で信じるだけでは充分ではありません。この和解の真理が、私たちの存在のありとあらゆる部

分にまで行き渡るようにすることが必要です。私たちは神と和解させていただき、許されていること、新し

い心、新しい霊、新しい見方で見る目、新しい聞き方をする耳をいただいていることを存在の隅々まで徹底

して確信しないでいる限り、私たちは人々の間に分裂を起こし続けるでしょう。なぜなら、私たちは人々に、

彼らが持っていない癒しの力を期待してしまうからです。

 私たちは神のものであり、私たちの精神、心、魂に必要なものはすべて、神との関係の中に見出すことが

出きることを完全に信じる時にだけ、私たちはこの世界で本当に自由となり、和解をもたらす者となるで

しょう。これは容易なことではありません。私たちはすぐに後ずさりして、自分を疑い、自分を拒絶してし

まうからです。神の言葉、サクラメント秘跡)、隣人愛、これらのものによって、私たちは本当に和解の

恵をいただいているということを絶えず思い起こす必要があります。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)