なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(577)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(577)復刻版を掲載します。2010年10月のものです。

 この10月の教団総会前に、私の戒規免職が、審判委員会の決定報告を受けて当時の山北宣久教団

議長の名にによって最終決定されました。


       黙想と祈りの夕べ通信(577)[Ⅻ-03]2010・10・17発行)復刻版


 先日開催された神奈川教区の常置委員会で、今回の教団による私の戒規免職決定通知を受けて、教区

としてどう受け止めるかについて話し合われました。その常置委員会が始まる前に鎌倉雪ノ下教会の信

徒で、教区の財務委員をし、教団の常議員でもあるMさんが、免職決定通知を受けて、来る教団総会の議

員全員に私が送った「こんなことって、許されますか???」という封書を、その封書の発信人に「日

本基督教団紅葉坂教会牧師 北村慈郎」と「日本基督教団紅葉坂教会牧師」とあり、既に私は免職によ

って「日本基督教団紅葉坂教会牧師」ではないので、文書は全部読みましたが、お返ししますと言って、

返してきました。彼は、2006年秋に開催された第35回合同後19回教団総会での聖餐式で、私がその総会

に教団に距離を置く沖縄教区の方々が出てこなかったので、沖縄教区との関係を修復して沖縄教区から

教団総会議員が出てきたら一緒に聖餐に与かりたい思い、配餐を受けなかったのを見ていて、その総会

期の常議員会で、教団総会の礼拝で聖餐式の配餐を受けなかった常議員がいると発言しました。そのこ

とがきっかけとなって、2007年7月の常議員会で、懇談で記録も取らないということで、聖餐について私

が発題したところ、10月の常議員会で山北議長から「教師退任勧告」が出てきたのです。

 さて常置委員会では、教団山北議長から教区議長のIさん宛てに、私と紅葉坂教会宛に来た「免職通知」

とほぼ同じ内容の「免職通知」が来ていて、その中に神奈川教区の教団総会議員を北村に代わった人を教

団事務局に知らせるように書いてあります。それを受けて教区常置委員会はどう対処するかが話し合われ

ました。6月の教区総会で神奈川教区は「日本基督教団教師委員会による北村慈郎教師に対する免職戒規

適用の無効を確認する件」が可決されている以上、それが教区の総意とすべきであるから、この議案が

教団総会で結論がでるまでは、神奈川教区としては北村を教団総会議員として扱うという意見が大勢を

占め、私に代わる別の教団総会議員を常置委員会は選任しないということになりました。このことは当

然といえば当然なのですが、連合長老会系の教会から選ばれている常置委員は今回の教団の決定に賛同

していますので、常置委員会全体の総意というわけにはいきませんでした。

 日本基督教団の教会にあって教師の解任は、教会総会出席者の3分の2以上の賛成により、教区がそれを

承認し、教団が同意した時に一個教会における教師の解任が決まります。これは教会規則の中にも明記

されています。ところが今回の私の場合は、教団が戒規免職を決定し、その免職通知に「免職決定によ

り、貴方は日本基督教団教師の身分を失い、日本基督教団紅葉坂教会牧師の職を解かれます」と一方的

に通知してきたわけです。この教団の姿勢ですと、教区も各個教会も教団の決定を追認してそれに従え

ということです。しかし、現在紅葉坂教会も神奈川教区も教団の決定を受け入れてはいません。この関

係がずっと続くとすれば、おかしなことになります。なぜこういう矛盾が起きたのでしょうか。それは、

一人の教師に対する戒規申し立てを、その教師が所属する教会役員会でも教区常置委員会でもなく、一

人の信徒(常議員)が行い、それを教師委員会が受理したことにあります。信仰職制委員会先例集96

には、戒規申立ては各個教会の役員会か教区常置委員会ができ、役員会の場合は教区常置委員会を経る

ことになっています。教区常置委員会がする場合も、十分にその教師が牧師をしている教会との協議を

した上でということになりますから、通常牧師解任は教会総会で決まり、教区が承認し、教団が同意す

るということになり、教団と各個教会及び教区との間に齟齬が起きることはありません。その意味で、

今回の私の戒規免職決定は、非受洗者への配餐をしている私が教憲教規違反であるという理由によるわ

けですが、教団教師委員会も審判委員会も余りにもルールを無視したやり方で決めましたので、紅葉坂

教会も教区の常置委員会も承服できないでいるわけです。

 来る10月26日-28日開催の教団総会では良識が示されることを願いますが、もしそうでなければ、

沖縄教区同様教団には距離を置くことを考えなければならないかも知れません。


       「教会、しみなくまた、汚れたもの」  10月17日


 教会は聖であると同時に罪深いもの、しみがないと同時に汚れています。教会はキリストの花嫁です。

キリストは教会を清めの水で洗い、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのな

い」(エフソ5:26-27)ものとしてご自身のもとに迎え入れたのでした。しかしまた、教会は罪深く戸

惑い、苦しみ悶える人々の集まりです。これらの人々はたえず肉欲と貪欲の力に誘惑され、常に対立と

競争とに巻き込まれています。

 教会は一つの体であると言う時、私たちは、洗礼と聖餐を通じてキリストの似姿とされた傷のない聖

なる体のことだけを話しているのではありません。教会のメンバーである人々の傷ついた体のことも心

に留めています。このような二つの考え方、言い方の両方を大切にする時初めて、私たちはイエスに真

に従う者の集まりである教会に生きることが出来るようになるでしょう。


                 (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)