なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(578)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(578)復刻版を掲載します。2010年10のものです。


黙想と祈りの夕べ通信(578)[Ⅻ-04]2010・10・24発行)復刻版


 いよいよ明日25日(月)に常議員会、26日ー28日に教団総会があります。いずれも池袋のメトロ

ポリタンホテルが会場となります。

 私は既に免職決定により、教団側からすると紅葉坂教会の主任担任教師でも、常議員でも教団総会

議員でもないことになります。けれども、神奈川教区は私を教団総会議員として26日、27日の宿泊を

確保してくれています。今回の私に対する免職決定を、紅葉坂教会としても神奈川教区としても受け

入れていません。ですから、私は常議員会にも教団総会にも出席する予定でいます。教団側が私の出

席を力で排除するのかどうか分かりませんが、とにかく出席しようと思っています。

 対話の不成立と法を使った力による排除は、1970年ごろ東京神学大学(以下東神大)の機動隊導入

もそうでした。当時半数の学生が教授会を批判し、本館をバリ封鎖しました。既に諸大学では学園闘

争も終焉しかけていましたが、東神大はまだ続いていました。その頃大学特別措置法が確か時限立法

として国会で成立しました。それによれば、何時までもバリ封鎖しているような大学には補助金がカ

ットされるというのです。東神大教授会は、大学として国家からの財政的な補助を失いたくなかった

ので、機動隊を導入して学生を排除し、学校の正常化をはかりました。その際数名の学生が逮捕され、

その後数年裁判が続きました。私が聞いているところでは、以前名古屋の御器所教会で教職として一

緒に働いたM君以外は、他にも復学希望者があったそうですが、教授会を批判して運動に加わった者は

誰も復学できなかったそうです。70名ほどの学生が、東神大を去りました。その中の何人かは農村伝

道神学校などの東神大以外の神学校に編入したり、Cコース(神学校に行かないで自分で勉強して教職

になるコース)で、牧師になった人もいます。また、日本基督教団の教師にはならず、信徒のままで

牧師の仕事をしている人もいます。この東神大問題で当時の高崎毅学長は、パウロのガラテヤ書に基

づいて、「まことの福音と異なる福音」という言い方をして、教授会は「まことの福音」を守るため

に、「異なる福音」に立つ批判的な学生達を異端視しました。当時は1960年代後半から大学闘争が激

しかった時代です。東神大にもその影響があったことは事実ですが、教授会を批判した学生の多くは、

必ずしも大学闘争の影響を受けていたわけではありません。教授会の神学が余りにも教条主義的に思

われ、現実社会で呻吟する人間の痛みや叫びに届かないのではないかという批判を闘争に加わった学

生は共有していました。ですから、バリ封鎖した批判的な学生は、自主講座を開き、「暁声」という機

関誌を発行し、自らの批判的な営為を積み重ねていました。「暁声」に収められている文章を読んで

みますと、教授会に批判的な学生達が真剣に考え、行動していたことが伝わってきます。真剣に問い

を投げかけていたことが分かります。もし当時の東神大教授会が自己相対化して、批判的な学生の問

いと向かい合い、対話と論争を通して未来を紡ぐことができたら、おそらく現在とは全く違った様相

を呈していたと思われます。それは、対話と論争から生まれる創造的で挑戦的な営為であり、その営

を信頼関係の中で神学教師も牧師も信徒も共有する可能性です。けれども、当時の東神大教授会は、

教授会を批判する学生を機動隊を導入し排除しました。排除された学生の側は、教授会の教条主義

な神学から発せられる言葉を、「死せる言葉の終焉」と断じました。

 私の免職についても、問題の発端は聖餐にあります。非受洗者への配餐をしている私に教師退任勧

告が突きつけられ、今回私は教団から、日本基督教団の教師を免職するという決定が下されたという

通知を受けました。この間、私からも紅葉坂教会役員会からも、教師委員会に対し、山北宣久教団議

長に対しても、要望・質問・抗議の文書を沢山出しました。そのほとんどは無視されたままです。対

話と論争の機会は全くと言っていいほどありません。何だか私の免職に加担した方々は、対話を恐れ

ているかのようです。聖餐については、聖書学的にも宣教論的にも、非受洗者にも開かれた聖餐の可

能性を否定することはできません。今回の私の免職は教団側からすると教憲教規違反が理由です。教

団は教憲教規を振りかざす前に、聖書から、教会の宣教の在り方から未受洗者配餐の可能性も含めて

充分論議すべきだったと思います。今後何れそうなるだろうことに期待したいと願っています。        


          「教会を愛する」     10月24日


 教会を愛することは、ほとんど不可能なように思えることがよくあります。けれども、教会にいる

人々はすべて~権力を持っていようと無力であろうと、保守的であろうと進歩的であろうと、寛容で

あろうと狂信的であろうと~この涙の谷間を行く、証し人の長い列に連なっています。讃美と感謝の

歌を歌い、主のみ声を聴き、分かち合うたびに増え続けるパンを共に食べながら道を行く証し人の長

い列、このことを思い起こす時、「私は教会が好きです。教会のメンバーであることが嬉しい」と言

えるのではないでしょうか。

 教会を愛するのは、私たちの聖なる義務です。教会を本当に愛することなしに、喜びと平和をもっ

て教会の内に生きることは出来ません。教会を本当に愛していないなら、人々を教会に招くことは出

来ません。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)