なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(592)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(592)復刻版を掲載します。2011年1月のものです。

 今回をもちまして、この黙想と祈りの夕べ通信復刻版は終了します。この黙想と祈りの夕べ通信は、

紅葉坂教会時代に11年間強、毎週1回行ってきた「黙想と祈りの夕べ」通信として、私がまとめて

出したものです。今後このブログに、黙想と祈りの夕べ通信に代わって何を掲載するかは、今のとこ

ろ考えていません。従って、今まではほぼ毎日ブログの掲載をしてきましたが、今後は毎日というわ

けにはいかないかもしれません。

 このブログは2006年から始めていて、途中お休みし、私の教師退任勧告、戒規免職問題が起こった

頃から再開し、主に日本基督教団乃至はキリスト教世界を対象にしたものを掲載してきました。今後

はこのブログをはじめた原点に戻って、「路傍伝道」をめざしたいと思っています。思ってはいます

が、実現できるかどうかは、今のところ約束できません。試行錯誤を繰り返していくことになるかと思

います。今後もおつきあいいただければ、幸いです。


      黙想と祈りの夕べ通信(592)[Ⅻ-18]2011・1・30発行)復刻版


 1月29日に当教会で寿地区センターの講演会がありました。「Homeless~障碍を抱えているというこ

と」という題で、講師は森川すいめいさんという方でした。森川さんのプロフィールは、「1973年生ま

れ。鍼灸師と医師免許をもつ現職久里浜アルコール症センター精神科医。埼玉の病院で週一回緩和医療

にも携わる。阪神淡路大震災にて約1年間ボランティア活動を行ったことをきっかけに、ボランティア人

生が始まった。41カ国バックパッカーとして世界を見聞し、世界を考えながら日本での活動を続ける。

NPO法人TENOHASI代表、ぼとむあっぷ研究会代表、世界の医療団TP代表医師。路上生活者支援活動暦は9

年」という人です。このプフィールを見るだけでも、面白そうな人に思えますが、講演を聞く前には、

この人が「東京の一地域における路上生活者の精神・知的障碍者割合に関する実態調査を行い、5割前後

に何らかの障碍を認めるという現状を明らかにした」とうかがっていましたので、何でそのような調査が

必要なのかといささか疑問を持っていました。しかし、実際に講演を聞きますと、プロフィールを見て

期待したとおり、面白い人でした。面白いということは、森川さんの講演から新しい発見が与えられた

ことと、自分が考えてきたことについてそのことが間違ってはいなかったという保証を得たように思え

るからです。先ず第一に、当事者性というか、その人が考えていること、求めていることを知るという

ことの大切さです。特に野宿者支援において、支援者が良かれと考えることを野宿者に押し付けてしま

うことがよくあるのですが、それは野宿者にとって抑圧以外の何ものでもないということです。これは

以前にもこの通信で書いたことがあるように思いますが、障がい者にとっての母親の場合にも同じこと

を言われることがあります。障がい者にとって一番の差別者は母親であるというのです。母親は自分の

子どもに良かれと思っていろいろと子どものためにします。しかし、その母親のやっていることが必ずし

もその子どもにとっては、自分の思いやして欲しいとことからすると、全くの見当違いということだっ

たとします。その場合、子どもにとってその母親は抑圧者以外の何ものでもないということになるから

です。幼い時からずっと青年になるまで、その子と母親との関係がそのようなものであったとしたら、

確かに子どもには母親が一番の差別者だということがよく分かります。そういう意味で、当事者の思い

や欲求を正しく理解することの大切さは否定しようがありません。傾聴ということでしょうが、傾聴の

難しさも同時に思わされます。他者とのコミュニケイションにおいて、出発点がすれ違ってしまったら、

どんなに時間をかけてもそのすれ違いを修正することは難しいと思います。すれ違ってしまった場合、

視点を変えて最初から見直す必要があります。視点を変えることによって他者との関係がスムーズにな

るということが起こり得るからです。

 森川さんのお話を聞きながら、個と共同体の関係の在り方について思いをめぐらしていました。地縁

血縁にしても日本の伝統的な家族や地域社会は個よりも優位にあり、個にとってはしばしば抑圧であり

ました。個をそのありのままの個として受容する共同体の存在が求められているのですが、現実にはそ

のような個を生かす共同体はなかなか見出されません。浦河べてるの家が注目されているのは、べてる

の家が個の解放に繋がる共同体だからでしょう。「弱さを絆に」というベテルの家の理念の一つを考え

ても、「弱さ」がマイナスイメージではなく、プラスイメージを持っていることが分かります。常識の

裏側からとらえ直す自由さがよく出ています。常識のもつ非人間性を、常識の裏側から見ることによっ

て乗り越えてゆく方向性も明白です。個を抑圧否定することによって成立する共同体ではなく、個を解

放肯定することへと結びつく共同体の構築こそが求められているのではないでしょうか。
    

           「喜びを選ぶ」        1月30日

 
 喜びは生きることを意義あるものにしてくれますが、多くの人にとって、喜びは見つけにくいようで

す。多くの人が、自分たちの人生は悲しく重苦しいものだと不満をならべます。それでは、一体何が私

たちにそれほど望ましい喜びをもたらしてくれるのでしょうか。ある人は偶然に幸運であり、他の人は

偶然に薄幸なのでしょうか。奇妙に思われるかもしれませんが、私たちは喜びを選ぶことが出来るので

す。二人の人が同じ出来事に出くわしたとして、それぞれが別の仕方でその出来事を受け止めることも

あるでしょう。一人は起こった出来事を、その中に何か希望が宿っていると信じて、受け入れて生きる

ことを選ぶかも知れません。もう一人の人は絶望を選び、それにつぶされてしまうかもしれません。

 私たちが人間であるのは、まさしくこの選択の自由によります。 


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)