なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(12)

 今日は、義兄の納骨が伊勢原のお寺であり、昨夜から鶴巻に帰っています。伊勢原小田急鶴巻温泉駅から新宿方面で隣の駅です。
 以下「黙想と祈りの夕べ通信(12)」を掲載します。
 
黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 12 1999・12・19発行)
 
 12日の「黙想と祈りの夕べ」には、一人の姉妹が新しく参加してくれました。
 この集いを開くに当たって私が考えさせられていた問題の一つに「礼拝は元気でないと来れない」という人たちの存在がありました。彼女は以前にそのように私に語ったことがありました。うれしいことです。この日の「分かち合い」では、私の方からその日のキリスト教入門講座でとりあげました「第一の言葉としての服従と第二の言葉としての自由」(ブルンナ-)についての感想を述べました。「主をおそれるのは知慧のはじめである」とありますように、神への畏敬(服従)という第一の言葉があって、自由という第二の言葉が生かされるということです。その点で、現在の日本社会で育っている子どもたちは、人間として独り立ちするために不可欠なこの服従と自由の弁証法を身につける機会に恵まれていないように思います。大人自身が欲望の奴隷ですから、子どもに服従と自由を大切にする人間としての尊厳を伝える知慧も方法もないのでしょう。戦後私たちが経済を最優先してきたそのつけが子どもたちに出ているのかも知れません。私たち教会に連なる者の責任は大きいと思います。
 さ、その他に「分かち合い」では、ハンディを負う子どもをもつ家族をはじめ、苦しみや痛みをもって生きる人やその家族は、その重荷を自分たち自身で負って行かなければなりませんが、その人やその家族に伴って生きる他者の存在があれば、大きいのでは。自分はそのような一人として歩みたいという発言がありました。
 また、教会で今年ほど平和について考えさせられたことはない。けれども、教会での平和論議には、自分はついていけない。教会は絶対平和を唱えるが、戦争をなくす具体的な平和への道を、もっと現実的に求めるべきではないかという主旨の発言がありました。
 それぞれ大切な指摘だと思いました。祈りの中で、ヘルパ-を必要とする、身に弱さをもつ人は、その人の存在自身が平和をつくりだしているのだから、そのような人と共に平和をつくりだす人にしてくださいという祈りが、一人の姉妹によって捧げられました。私も、このことの大切さを感じさせられています。吉本隆明が60年安保の挫折を経験して、国家の共同幻想を問う『共同幻想』という本を書きました。おそれらく吉本の中には国家を問うには国家の本質を見抜かなければならないという考えがあったと思われます。私たちは一人一人の人間として現実に生活しています。そういう一人から物事を見ていったとき、国家は最も遠いところにあるのです。一人にとって最も身近なのは自分とは別の同じ一人です。ですから、原理的には、私たちみんながそういう共同幻想としての国家に加担しなければ、国家は戦争を行なうことはできません。そのためには、最も具体的な一人と一人の関係に立ち続けてゆくことなのです。吉本はいろいろな社会的な運動にも、国家の本質と同質のものを感じているようです。教会も共同幻想が個人を抑圧する集団となり得ます。そういう教会はイエスの志したものから遠く離れてしまっているのです。
 「わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という十字架上のイエスの叫びは、徹底した個としてのイエスの叫びです。一対一関係としての弟子の一人一人からも見捨てられたイエスの叫びです。そのイエスの叫びの共鳴からしか私たち教会の共同性は成立しないのではないでしょうか。「黙想と祈りの夕べ」は、一人を大切にする集いでありたいと思います。