なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(451)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(451)復刻版を掲載します。2008年5月のものです。


      黙想と祈りの夕べ通信(451[-33]2008・5・18発行)復刻版


 ミャンマーではサイクロンによって多くの人が亡くなり、被災者への救援が求められながら、なか

なか迅速に進んでいないようです。続けて中国四川省で大地震が発生し、今も倒壊した建物の下敷き

になっている人が多いと報道されています。こちらも大被害を受けています。国際社会は迅速に救援

物資や人手を送る用意があるのに、この二つの国は国の壁が高く、開かれていないために、国際社会

からの救援が円滑に現地に届かないという問題を、今回露呈させました。ミャンマーは軍事政権下で

あるということです。中国は中国共産党一党独裁下にあります。国連や諸外国からの救援を内政干

渉という風に見ているのではないでしょうか。(この黙想と祈りの夕べ以後に、中国は日本からの救

援は受け入れました)。大きな災害が起き、大きな被害が発生したときに、何よりも必要なのは迅速

な救援ではないかと思います。もしミャンマーと中国の国の壁が低く、それこそユーロ加盟国のよう

に殆ど国境がなく、どこの国の人とも往来が自由に開かれていたとするなら、国連を始め諸外国の政

府や民間による救援活動がスムーズに行われたのではないかと思います。もちろん救援を受け入れる

側に受け入れ態勢ができていないと混乱することになるでしょうが。それにしても民衆にとって国家

とは何なのでしょうか。私たちは現在国民国家を無批判に受け入れているかもしれませんが、少なく

とも災害においては国家の壁が低ければ低いほど被災者である民衆には好都合ということなのではな

いでしょうか。今回の二つの大災害の報道から、国家の壁ということを改めて考えさせられました。

今も瓦礫の下にいる方々、水や食糧など救援を待っている方々に、速やかに手が差し延べられるよう

にと願うものです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から以下のような発言がありました。5月5日幕張を会場に開か

れた憲法9条会議に行った。そこで以前紅葉坂教会に所属していたTさんに会った。彼女は84歳でこの

会議の通訳のボランティアに応募したという。しかし体調を崩し、そのボランティアが出来ず残念が

っていた。現在渋谷に住んでいるので、千葉の教会に通っていたが、近くの教会に移ろうとして、い

くつかの教会の礼拝に出席したという。彼女は信仰者として信仰と共に平和のことを大切にして行動

したいと考えている。その事を牧師に話すと一つの教会ではその教会の牧師から、信仰と社会問題は

別だと言われ、その教会には居られなかった。又、-今行っている教会でも家庭集会に出た時、そこ

で社会問題を話したら、場がしらけてしまったと言っていた。教会って難しいわね? と彼女は言っ

ていた。辺野古基地建設反対の座り込みを国会前で続けている二人の信仰の先輩方がいらっしゃるが

その方たちも、国会前の座り込みだけではなく、様々な平和のための働きを続けている。ただ活動し

ているというのではなく、色々な学びをなさっている事が伝わってくる。そうした態度には頭が下が

る。幕張で会ったTさんもそうだが、三人ともキリスト者であり、教会に連なりつつ平和のために働

いている。教会がよって立つイエスの福音には、個々人の心の癒しだけでなく、世界の和解と平和の

実現があるのではないか。その平和を求めていくときには、信じる人も信じない人も、すべての人と

共に平和を求めていくようになるのではないか。ただ教会の人数を増やす伝道というよりも、すべて

の人と共に平和の実現を求めていくのが教会ではないだろうか。9条の会に出かけて行って、そのよ

うに思わされた。

 もう一人の方の発言もありました。朗読を始めて、それが福祉とのかかわりへと発展していること

を喜んでいる(朗読の会が障がい者への朗読奉仕に取り組んでいること)。穏やかではあったが朗読

を楽しむ会が、社会とのつながりをもっていこうとする試みを、私としては何とか続けていきたいと

思っている。しかし、朗読の会の方では問題が起きており、その状況を見つめていきたい。会の中で

意見を出し合って、強引にすすめるのではなく、みんなの合意ができればと願っている。


          
        「私たちの内なる神の息吹き」     5月16日


聖霊について語る時、私たちは私たちの内にあって息をしておられる神の息吹きについて語っていま

す。「霊」にあたるギリシャ語プネウマは「息」を意味します。私たちは普段呼吸していることをほ

とんど意識していません。うまく息が出来なくなって初めてそれに気づくほど、呼吸はいのちにとっ

て欠かすことの出来ないものです。

 神の霊は私たちの呼吸のようなものであす。神の霊は、私たちが、私たちが自分に近いよりももっ

と近くおられます。しばしばそれと気づかないかもしれませんが、神の霊なくして “霊的な生活”

を送ることは出来ません。私たちの内にあって祈っておられるのが神の聖霊であり、愛、許し、親切、

善、やさしさ、平和、喜びの贈り物を私たちにくださるのが神の聖霊です。死によっても破壊される

ことのないいのちを私たちに与えてくださるのも神の聖霊です。常に祈りましょう「聖霊よ、来てく

ださい」と。


                (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)