なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(450)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(450)復刻版を掲載します。2008年5月のものです。

 今回も下記通信の内容にあるM牧師のことで関係する出会いを、つい先日船越教会で私は体験しました。

6月8日のペンテコステ礼拝で、既に召されている船越教会の第二代牧師のアメシカ在住のお連れ合いが、

日本にいらして、その日の礼拝を船越教会で共にしました。この方は夫の牧師ととも以前にブラジルにい

たことがあり、M牧師とも懇意の方で、現在東京の介護ホームにおられるM牧師を訪ねてこられたというの

です。その日の礼拝後の懇談で、そのことを伺いました。M牧師はお連れ合いを先に送り、今は娘さんが住

む近くの介護ホームにいらっしゃるようです。主の支えを祈りつつ。


        黙想と祈りの夕べ通信(450[-32]2008・5・11発行)復刻版

  
 私がM牧師をはじめて知ったのは名古屋時代です。M牧師は長年ブラジルで伝道しておられた方で、お連れ

合いの病気により、22年間のブラジルでの働きに区切りをつけて日本に帰って来られ、1979年に広島社会館

の館長になりました。多分M牧師が広島社会館の館長時代だったと思います。名古屋で開かれた集会の講師と

して来られ、そこで私はお話を聞きました。まだブラジルから帰って来られて数年しか経っていなかったの

ではなかったかと思います。印象に残ったお話は、ブラジルでご子息が軍事政権に捕らえられ、10ヶ月の獄

中生活の後釈放されたことに触れ、確かプロテスタントの教会や牧師は支援してくれなかったが、ブラジル

の民衆は本当に暖かく励ましてくれたと、おっしゃったことです。それからずっとM牧師との接点はなく、横

浜に来てからも全く関わりがありませんでした。ところが、1年半ほど前に「聖餐を考える会」が東京の教会

であり、私も参加しました。その会にK教会の牧師としてMさんが出席していて、私の中では久しぶりの再会

を喜びました。名古屋で講演をお聞きした時にも感じましたが、おっしゃることは明快で、迫力満点です。

いかにも主体を賭けていることが、語る言葉に表れています。K教会は西東京教区に属し、西東京教区は東京

教区と共に東神大教授会の影響力が強いところで、開かれた聖餐の執行には相当の批判があるところですが、

Mさんは堂々と自分の遣わされた教会で開かれた聖餐を執行しておられました。本年3月84歳でその教会を辞

し、現在は広島の廿日市にあしますケアホームにMさんご夫妻はおられます。最近その広島から個人誌を送っ

てくれました。その中に84歳で辞された教会での送別礼拝説教があり、ご自分の個人史に触れながら、なぜ

聖餐を開くようになったのかが書かれていました。大変興味深く、私もまた大いに共感しましたので、紹介

させてもらいます。

 「日系人社会からも、教会の信者からも危険人物と見られ、軍事政権からもにらまれていると忠告を受け

ていた私は、そうした外圧にいささか怯え、迷いながらも、この私を受け入れて下さる神の恵みの豊さ、無

条件さを深く感じ、学び、慰めを受けていました。それは今までの『信仰によって救われる』という神学を

根底から覆す豊さであり、どのような悪もこの恵みを突き破る事はないという底抜けの恵みを外圧のきびし

さと反比例的に理解することができたのです。そしてその揺るぎない大地のような神の救いの上にあって、

もはや自分が救われるかどうか等心配する必要はなく、この世の悪に対してノーと言う姿勢を持つ事が出来

ました。

 ・・・・すべての人は救われるという福音とその証としてのオープンの聖餐式は私の聖書に対する視野を大き

く広げ、自由にしてくれましたし、この世の問題に対する発言にも勇気が与えられました。
 ・・・・・
 定年を迎えたので、社会館を辞め、出来るならばもう一度伝道したいと願っていましたら、1990年66歳の

私を、この教会は招いて下さいました。早速、半ば強引に始めたのがオープンの聖餐式、神の無条件の恵み

に招かれているだけではなく、その恵みの大地の上にあることを確認してほしい、信じようと信じまいとそ

の上に自分の存在があるのだと信じる事が信仰なのだと福音を語ってきました。信じたら恵みを受けるので

はなく、恵みの上にある事を信じる事が信仰なのです。その恵みの大地の上に立って、神を大切にし、この

世を大切にし、自分を大切にし、隣人を大切にしようとよびかけてきたのです」。

 私は個人的には開かれた聖餐の根拠はこのM牧師の「神学」(?)にあると思っています。陪餐する側の信

仰を問題とする限り、洗礼→聖餐が筋で、何ら聖餐を開く必然性はありません。教会は神の恵みの大地の上

に信じる者も信じない者もすべての者が立っていることを信じるからこそ、資格や条件を問わずに誰でも主

の食卓(聖餐)に招くことができるのではないでしょうか。
           

               「杯を掲げる」 5月11日


 悲しみと喜びをしっかりと受け入れ、いのちの杯をしっかりと手に持つ時、私たちは人間としての連帯の内

に杯を高く掲げることが出来るようになります。自分の杯を掲げるとは、私たちが生きていることを恥とは思

わないということです。こうすることで、私たちは自分の真実の友となろうとしているように、他の人々もま

た自分の真実の友となるようにと力づけられるでしょう。杯を掲げ「人生に」とか「あなたの健康のため」と

言う時、私たちは人生を一緒に誠実に見守っていこうとしていることを公に言い表します。こうして私たちは

与えられた杯を、私たちを本当に完成へと導いてくれるものだという確信のうちに飲み干すことで、励まし合

う人々の交わりを作ることが出来るでしょう。


                     (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)