なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(130)復刻版

      黙想と祈りの夕べ通信(130[-25]2002.3.24発行)復刻版

 今日は朝の礼拝でY牧師の説教を伺いました。その中で共感したことがありました。聖書の神を信じるということが、私たちのあり方、生き方に及ぼす影響についてです。

 一つは、神を信じるということは私たちが醒めた者として人間としての限界に留まることを意味するということです。Y牧師は熱狂との関係で話されました。神信仰によって私たちがあたかも神になったかのように振る舞う熱狂主義は、聖書の神信仰からは出て来ないと思います。このことは、大変大切な指摘だと思いました。

 もう一つは、イエスさまを信じる者にもそうでない者にも神の恵みと愛は平等に注がれているということです。バラバラな私たちの中に一致があるとすれば、そのようなすべての人に注がれている神の恵みと愛によって私たちは、バラバラだけれども一つであることを信じるその信仰においてであるということです。

 私たちはともしますと見える形の一致を求める余り、擬制としての共同性を絶対化しがちです。そしてバラバラであることを許容せず、ある枠組みを基準にして、それに入らない人を排除するのです。そういう意味では、昨年夏の日曜学校夏期集会のテーマ「バラバラのいっしょ」は、教会のあり様を適切に示していると言えるでしょう。
 
 以上のような私の発言に続いて、一人の姉妹が以下のような発言をしました。
 
 同じくこの日のY牧師の説教から、聖霊が働くとはどんなことか、具体的なイメージを与えられた。先生の説教の中では、礼拝の会衆の中に讃美歌を歌うテンポが遅い人がいた場合、みんながその人に合わせることも、そこに聖霊が働いていると言われた。ある人が音楽会に誘われた時、断る理由として、夜はなかなか出られないことと、聖霊が働く音楽会がないのよねーと言われたことがある。

 今日のY牧師のお話を聞いていて、名古屋の教会のことを思い出した。たまたま司会者、奏楽者が共に80歳以上の方で行われた礼拝があった。聖書朗読も奏楽もテンポが遅かった。その礼拝に参加していた私は、少々苦痛を感じながら、ここに自分が置かれていることは、神さまに導かれているのではと感じたことがあった。また名演奏でなくても、会場と演奏とが一つに感じる時、聖霊が降った演奏会と言えるのではないか。私は月2回、知的障害者の作業所にお昼を作りに行く。その時に、作業所で作業する方と指導員の方との何とも言えない温かな会話が楽しみだ。そのような時、ここにも神の導きがあることに気づかされたことがある。

 今朝も日曜学校の進級のお祝いの会があり、そこで、ぶっつけ本番でスタッフが劇をした。『大きなかぶ』という絵本を読んで、それをスタッフが演じたのである。その時にも、みんなが一つになれた。この時もそうなのかも知れない。今日は、聖霊の働きの具体的なイメージを与えられて感謝である。
 
 Y先生は、『傍らに立つ者供戮涼罎如⊂綉の身近な聖霊の働きと共に、「聖霊を信ず」という使徒信条講解の中では「神の力としての聖霊」として、以下のように記しています。「\士遒蓮⊆腑ぅ┘垢鮖廚さこさせる神の力。∪士遒箸蓮▲ぅ┘垢鮗腓塙霰鬚気擦訖世領蓮聖霊とは、人びとをして神の子たち、つまり人を自由と喜びを持つ者たらしめる神の力。た世紡个靴董屮▲奪弌父よ」と呼びかけさせ、祈らせる神の力。ダ士遒蓮∋笋燭舛鬚靴銅腓鮠擇靴擦靴瓩訖世領蓮聖霊とは、主イエス・キリストの交わりに導き、新しい言葉を語らせ、人々を結びつける神の力。
 
 また、一人の兄弟は、自分の仕事の忙しさの中で、怪我の無いように作業を励んでいると報告してくれた。


        「正しい祈り」(『ルターによる日々のみことば』より)

 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神 の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞き入れて下さるということである。
                          第一ヨハネ5:14

 さてこの場合、主を祈りに導いた悩みは、この世的な肉体的悩みでした。わたしたちもからだに関する問題では、わたしたちの思いを神にゆだねなければなりません。パウロも言っているように、わたしたちはどのように祈ってよいか知らないからです。神がわたしたちを十字架のもとにおき、悩みに取り囲ませるのがいちばん必要である場合がしばしばあります。神のみが、最善でもっとも必要なことをご存知ですから、主のみ旨をわたしたちの思いの前におき、わたしたちの従順を忍耐のうちに証拠だてなければなりません。

 しかし、この世の益でなく、永遠の益に関係する場合、すなわち、神がみことばによりわたしたちの罪を赦し、聖霊と永遠のいのちを与えてくださることについては、神のみ旨は確かで明らかです。主はすべての人の救われることを望んでおられます。すべての人が罪を認めて、キリストによって、罪の赦しを信じることを望んでおられます。それゆえ、このような場合には、「わたしの思いではなく、あなたのみこころがなりますように」と祈る必要はありません。神はこれを喜び、かならずなしてくださることを知り、信じなければなりません。なぜなら、今ここに、このようなことにつてのみ旨を啓示するみことばが目の前におかれているからです。

                                 1545年の説教から