なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(58)

    マルコ福音書による説教(58)マルコによる福音書14:12-21、
          
・今は夏ですが、3月末から4月にかけて、自然が冬から春の装いにかわる季節に、ユダヤ人たちは、一年間のお祭りのなかでも彼らにとって最も大切な過ぎ越しの祭りを祝います。イエスの時代にも、地中海周辺に散在していたユダヤ人たちは、この過ぎ越しを祝うために遠くから巡礼してエルサレムに集まって来ました。イエスの時代に近い古代ユダヤの歴史を書きましたヨセフスによりますと、当時エルサレムに集まった人たちは、200万人もあったと言われています。ヨセフスは、民間伝承に基づいてユダヤ古代史を書きましたので、大分誇張があるとしても、大変多くの人がエルサレムに集まって、過ぎ越しの祭りを祝ったことは確かでしょう。この祭りの期間のエルサレムは大変な賑わいだったと思われます。その中にイエスと弟子たちもいて、過ぎ越しの食事(最後の晩餐)を一緒にしたと思われます。今日のマルコによる福音書の記事は、そのことを記しているものであります。

・過ぎ越しの祭りは、ユダヤ人の先祖がエジプトで奴隷であった状態からモ-セという指導者を与えられて不思議な導きによって、エジプトを脱出できたという出来事を思い起して、そこにイスラエルを導く神のみ業を信じて祝う祭りであります。小さな民族が政治的にも、経済的にも圧倒的なエジプトの王の支配から解放されたという、彼ら自身の力では全く不可能であった歴史的事件がその元にあると思われます。そしてイスラエルの人々は、その歴史的な事件を基盤として、自分たちの民族形成をしていきました。彼らはこの出来事において彼らを束縛する歴史の重圧を押し退けて、自由を与える神の介入の力を信じました。

・その後、イスラエルの人たちは、この出エジプトの出来事から自分たちの歩みを出発させました。十戒という法によって神との契約にふさわしい共同体を形成するために、荒野の時代を経て、カナン(パレスチナ)に定着し、そこでさまざまな困難に直面しながら、イスラエルをエジプトから解放してくださった神の前に、真実な民として生き抜くという彼らの固有の課題を具体的な歴史の中で取り組んでいきました。そしてそのようなイスラエルの歴史は失敗と挫折の歴史とも言えます。しかし、イスラエル史において取り組まれた人間の問題は、現在のわれわれにも多くのことを教えてくれるのであります。

・彼らはイエスの時代にも他国であるロ-マの支配下にあって、民族的な同一性をユダヤ教の祭儀と律法遵守によって守っていました。その中の最も重要な祭儀として過ぎ越しの祭りが祝われたのであります。その祭りの中で、過ぎ越しの食事が10数名のグル-プを単位として行われました。この食事は、ユダヤ人の普段の食事もそういう色彩が濃厚にあるといわれますが、祭儀と密接に結びついています。食事の中で意識的に出エジプトの出来事が想起されるような型をもっていて、一緒に食事をすることによって、その参会者たちの一体性が確認されます。しかも出エジプトによるエジプトからの解放によって、現在の自分たちがあること、他国による支配の苦しみも必ずかつてと同じように神の介入により解放されるという希望を信じて、今の時を忍耐する力を得ること、そのような出エジプトの歴史を想起することによって現在の彼らのアイデンティティ-を獲得する行為であります。

・人間の一体性とか共同性とか言われるものについて考えさせられます。人間が共に生きて行くことを除外しては、実際に生きていけないことを考えるとき、私たちは何らかの関係に支えられて、今こうして存在し得ると言えます。イエスもまた、一人の人間として歴史上に出現したとき、2000年前のガリラヤを中心としたユダヤ人一般が持つ既成の社会的諸関係の拘束力から、全く自由な者としてあったのではありません。家族という絆に結ばれ、律法主義的なユダヤ教社会に拘束され、政治的にはロ-マに支配されているユダヤ社会の一員として、その枠組みを突き破った振舞いに対しては、厳しい反応が返ってきたのであります。

・「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。また、わたしよりも自分の息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10:34-37)。

・この言葉が示すものは、また安息日の癒し(律法違反)、取税人との会食、エルサレム神殿を批判する行為等のイエスの振舞いと変わりません。このようなイエスの振舞いは、既成社会の諸制度とそれを担う人々からの反発を受けました。そういう反発を身に受けながら、そのような力に屈伏しないイエスに接した者は、古い秩序の下にある自己を否定して、新しくイエスと共に生きる促しを聞き取ったのであります。そのようなイエスに従う者たちが、イエスとの関わりを基底とした共同の歩みを始めたのであります。その群れは、ただ「神への愛と隣人への愛」によって結ばれる人間関係をつくり出す者たちでありました。もちろんそのためには古き支配を捨てることが不可欠でした。巡回伝道者のように村から村を移って行く放浪生活へ、イエスに従って進むことは、弟子たちには文字通り古き自己とその生活を捨てることを強いたと思われます。病気の治癒や悪霊追放によって、古き世の支配の終わりをもたらすイエスの行為は驚きそのものでありました。ことばでは十分には表せない解放の喜びが彼らを包み込んだに違いありません。

・私たちは、その最も象徴的な出来事として、イエスの周囲に集まった群衆がイエスの教えに耳を傾けていたところ、夕方になってしまい、それぞれの町や村に帰るにはその途中で空腹に絶えられなくなってしまうとき、わずかのパンと魚で全ての参会者を満腹にさせたという奇跡物語を知っています。そこに集まっていた者たちは、ただイエスの分かち与える賜物を受けるということにおいて一つとされています。その共同の食事は、全ての社会的、身体的存在としての人間の相違に左右されません。

・そのような一体性は文字通り新しい事でありました。既成の共同性を突き抜けた将来の神の支配を先取りするものでありました。しかし、古き力と新しい力とは激突する運命にあります。古い力に属する人たちが、イエスを抹殺するためにその総力を結集してきたときに、弟子たちは動揺しました。比較的その対立がまだ顕在化していない時期には弟子たちは「あれか、これか」という決断を回避できましたが、今はそうはいきません。イエスを抹殺することによって古い秩序に固執しようとする勢力が、イエスの弟子を誘惑し、裏切らせることに成功しました。イスカリオテのユダがイエスを売り渡すことを決意し、行動に移そうとしました。イエスは、そのことを知った上で、最後の晩餐に臨んでいたのでしょう。ヨハネによる福音書によりますと、彼らの足を洗い、食事を始めます。心のつながりのない者同志の食事ほど味気ないものはありません。重苦しい空気がただよっていて、食物を口に入れるのもいやになるくらいです。家族の食事でも、心のつながりが確かな時と、それが何かの行き違いによって失われている時では、同じ食事でも全く様相が違ってしまいます。

・「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。この決定的な言葉がイエスの口から語られたとき、弟子の動揺は極限に達しました。「まさかわたしのことでは」という言葉は、微妙に彼らの心理を描いているように思われます。少し先になりますが、ペテロの否認の予告に対して、ペテロが答えた言葉と比べてみますと、弟子の心理の振幅を読み取ることが出来るかも知れません。

・「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(14:31)。このような弟子の意識や決意は、迫ってくる状況の厳しさの前に、すっ飛んでしまうのであります。おそらく、イエスは、そのような弟子たちの現実を知り尽くしていたのではないでしょうか。イエスを裏切る人間は、「生まれなかった方が、その者のためによかった」(21節)と言われていますが。

・にも拘らず、イエスは、そのような裏切り者との関わりを自ら切ることをいたしません。このイエスによる無条件の受容と、イエスを裏切る否定的な人間の現実とが、交叉している場所に、弟子たちは立たされているわけですが、それはまた、私たちの場所と同じではないでしょうか。

・そこで、否定的現実に引き止められ、そこを脱出できないかぎり、人間には希望がないのであります。ニヒリズムが、私たちを支配し、あらゆる前進的な歩みを不可能にし、その桎梏につなぎとめられてしまうでしょう。しかし、否定が、イエスの肯定によって否定されている出来事によって(福音)、私たちは己れの否定的現実を自らに抱えながら、その自己の否定の呪縛からも自由とされているのではないでしょうか。イエスと弟子たちの共同体は、暗黙の一体性をもって、外に向かって攻撃的な形をとることはありません。弟子たちは、常に「赦された罪人」として生きるのです。弟子たちは、イエスの赦しの中にありますが、常に罪人でしかないのであります。

・イエスは、ヨヘネによる福音書によりますと、弟子たちに助け主(弁護者)を送るためにわたしは去っていくと申します。
  
 ヨハネ福音書14章15-21節朗読。

・イエスと共に赦された罪人の一人として、神に向かって一歩踏み出して生きるものでありたと願います。