なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(453)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(453)復刻版を掲載します。2008年6月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(453[-35]2008・6・1発行)復刻版


 25日(日)~26日(月)に沖縄教区総会が開かれました。この4月から那覇中央教会の牧師になって沖縄に

いるKさんからメールが入り、沖縄教区の議長に私たちの教会が6月29日にお呼びしていますMさんがなったと

いうことです。また今総会に出された「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」答申も承認されて、沖縄教

区は教団との間には今後も距離を置くという線でいくことになったようです。別の情報では、この沖縄教区

総会前には東神大教授の山口隆康さんが講師となって沖縄で現在の山北議長体制を支持する人たちによる協

議会が開かれ、沖縄教区総会への足固めを行ったようですが、沖縄教区総会は山北議長を批判する方向を選

んだことになります。議長選挙ではMさんと前議長のCさんとが20対20で再々選挙の結果、21対19でMさんに決

まり、その後は雪崩現象のようになって、教団との間には距離置き、沖縄という地にある教会として主体的

に宣教の課題を担っていく方向を選びとったということでしょう。私たちも神奈川という地にある教会とし

て主体的にその宣教の課題を担っていくような教会でありたいと願います。けれども今後の沖縄教区は此れ

まで同様多難な道を歩んでいくことになるでしょう。沖縄教区の今後についてどうぞお祈りいただければ幸

いです。いずれ「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」答申を冊子にしたいと思いますが、ちなみにどん

な項目があるかを、ここで記しておきたいと思います。

 第1項目「沖縄に立つ教会」~沖縄および沖縄教会の歴史をふまえた沖縄の教会、沖縄戦の戦禍によりゼ

ロから出発し出直した平和を希求する教会、戦責告白に生きる教会~。第2項「教会と国家」~この世の中で

国家と共にありつつ、国籍を天にもつものとして、国家から自由に生きる在り方をする教会、国家に屈服さ

せられた1941年合同の負の遺産を克服する質の教会、沖縄という人間社会をフィールドとする教会~。第3項

「内外に開かれた合同教会としての教会」~内外に開かれた合同教会としての教会、他教会、他教派との協

力関係を重視し、地域社会との連帯に生きる教会~。第4項「沖縄における合同教会の信仰告白」~独自の信

仰告白をもつ教会、一定の規範性をもつが、固定化せず、多様性を尊重し、絶えず追求していくべき目標・証

としての信仰告白~。第5項目「積極的に福音宣教する教会」~〈小さくされた人々〉と共に、神と人との交

わりに生きる教会のわざとしての宣教~。第6項目「沖縄にある開かれた教会の聖礼典」~沖縄にあり、沖縄

の歴史を踏まえた教会、国家体制から自由になり、平和をつくりだす教会、内外に開かれた合同教会として

の教会、多様性を尊重し、絶えず追求していくべき目標・証をしての信仰告白を持つ教会、神と人との交わり、

「小さくされた人たち」との交わりに生きる教会の聖礼典~。第7項目「財政的自立」~説明省略~。第8項

目「信徒論・教職制・会議制」~説明省略~4。第9項目「教会の主体性(69年合同の総括)~69年合同から

みえてくるもの、それは沖縄の教会の主体性の弱さである。「沖縄に立つ教会」を目指すとき、私たちは「69

年合同」を超えなければならない~。

 上記の私の発言に続いて一人の方らか以下のような発言がありました。今教会の方と沖縄に行く計画をし

ている。有意義な旅行ができればと願っている。

 続いて、もう一人の方の発言がありました。今日の朗読聖書箇所の一つであるラザロの物語を興味深く聞

いた。このところ教会ではこの世の旅路を歩み終えた方が多く、 天国の住人になっていることと思う。一人

一人を送る毎に自分の責任が重くなっていくように感じている。子どもたちには、よく死んだ人は天の星と

なって今でも私たちを見ていてくれるんだよと話したりしている。私は父が戦死して顔も見ていないので小

さい時から 死んだ父がどこかで自分を見ているという意識が、神が見ているのと同じように感じている。で

すから、ラザロの物語は実に面白い。このラザロの物語のように、生前自分の家の前で物乞いしていた貧し

いラザロのことなど見向きもせずに、贅沢に暮らしていた大金持ちが死んで地獄に落ちてその炎の暑さに苦

しんでいたとき、天国にはラザロがアブラハムと一緒にいるのを見ます。そして自分の生きている兄弟たち

に使いを遣わして、自分と同じように生きていると天国には行かれないから気をつけな、と言ってもらうよ

うにアブラハムに頼んでいます。 黙想の時に、そういう使いが、気がつかないところで天国から私のところ

にも来ているのではないか、と思い巡らせた。結論としては、何をしたかでなく聖書を読んでどう生きるか

がと問われているように思う。フェミニスト神学に出会って、自分の中で想像力をもって聖書を読むことを

学んだ。自己流にならないように、自分なりに聖書を読み、神のことばを追い求めて生きて行くようにと声

をかけられている気がしている。

     
        「この世にあって、この世のものでないイエス」 6月1日


 山上の垂訓は、イエスの自画像を私たちに示しています。始めに見た時は、最も人目をひかない自画像の

ように思われるかもしれません。一体誰が、貧しく、悲しみ、迫害されることを望むでしょうか。一体誰が、

本当に柔和で、憐れみ深く、心清く、平和を実現し、いつも正義に心を傾けていることが出来るでしょうか。

ここで現実に根ざした生き方とは何でしょうか。私たちは、この世界で生き延びるためにこの世のやり方に

ならう必要はないのでしょうか。

 イエスは、この世のものとならずにこの世に生きる方法を示してくださいます。イエスの生涯に範を取る

時、私たちの前に新しい世界が広がって来ます。天の国は私たちのものとなり、この地は私たちが受け継ぐ

ものとなるでしょう。私たちは慰められ、満たされ、憐れみを受けるでしょう。そうです。死んだ後だけで

はなく、今ここにおいて私たちは神の子として認められ、真に神を見るでしょう(マタイ5:3~10)。

それがイエスの生涯を模範として生きる報いです。


                    (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)