なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(377)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(377)復刻版を掲載します。2006年12月のものです。

 下記に記しています2006年12月の第35(合同後20)回教団総会第一回常議員会は、私が200

4年の教団総会で初めて常議員に選ばれてからちょうど2年目になります。常議員としては2期目に

なりますが、この第35(合同後20)回教団総会で行われた礼拝での聖餐式で、私は陪餐に与りません

でした。沖縄教区が教団とに距離を置いて総会議員を選出せず、実質的に沖縄教区を排除して行わ

れている教団総会での聖餐式はふさわしくない聖餐式だと思ったからです。その私の陪餐拒否

(?)を神奈川教区の議員席で見ていたのでしょう。ある神奈川教区の常議員が、第一回常議員会

の時に、教団総会の礼拝での聖餐式の時、常議員の中で陪餐に与らなかった人がいるということを

問題にしました。彼は誰とは言いませんでしたが、私はそれは私であると申し上げました。多分初

めから仕組まれたことではないかと思いますが、そこで下記のようなことになり、次回の常議員会

に私は資料を整えて聖餐についての発題をしました。議長からその発題の場が議事ではなく、記録

を取らない懇談会ということを確認した上でした。しかし、この時の発題を理由にして、次の常議

員会では、山北前議長から教師退任勧告を受けるようになったのです。

 それから7年が経過し、今年の秋になりますと、丸8年ということになります。貴重な時間と労

力をこのために随分多く使うことなってしまいました。まだ続くと思いますが、福音理解や宣教理

解、教会理解の問題を法による「教師免職処分」によって解決しようとする姿勢を堅持する限り、

現教団執行部とは最後の最後まで闘わなければならないと思っています。お陰さまで、今のところ

健康も支えられ、多くの方々からのご支援もあって、教師免職処分によって私がどうこうというこ

とは殆どありませんが、3月29日の支援会の集会&総会をはじめ今後もよろしくお願い致しま

す。


       黙想と祈りの夕べ通信(377[-12]2006・12・17発行)復刻版 


 昨日から今日にかけて教団の常議員会が開かれました。10月末に第35(合同後20)回教団総

会が開催されてからのはじめての常議員会でした。第34(合同後19)回総会期のはじめての常議

員会でも、1時間半以上に渡って私へのある種のパッシングがありました。34(合同後19)回

教団総会では、冒頭性差別特別委員会再設置の各教区から出された議案を同一趣旨による議案だか

らということで、最初に出された一つの議案しか教団総会の議案にしなかった執行部に対する抗議

行動をしました。たまたま私が一番前の席だったので最初に山北議長に詰め寄りました。私へのパ

ッシングはそのことに対する非難という形でした。今回は私が未受洗者への聖餐を行っているとい

うことで、そういう常議員は資格があるだろうかということでした。それは山北議長が最初に今総

会期は教憲教規を遵守して常議員会運営を行いたいと発言した後に、他の常議員から私が未受洗者

に開かれた陪餐をしていると名指しされ、弁明を求められたので、常議員会で議論するならば、私

はそれに応えるつもりであることを話しました。議長は議事が早く終われば、教団総会で起こった

同性愛差別発言があるので、差別の問題と北村さんの問題を懇談したいと発言しましたが、結局予

定された議事で時間一杯になったので、懇談は行われませんでした。私は最後に確認して、私の問

題というのは、常議員資格のことなのか、聖餐そのもののことなのかを議長に質問しました。議長

は両方だと答えたので、そうならば、資料を準備したいので前もって知らせて欲しいと要望しまし

た。山北議長をはじめ正常化の人たちは、ただただ信仰告白と教憲教規が教団の教会の土俵である

ということを主張し、宣教理解においても教会実践においても多様な各個教会の現場の苦闘への理

解を示そうとしません。教条主義的に自らの正統性に立って、それとは違うものを切り捨ててはば

かりません。聖餐についてもまともな議論はできないとは思いますが、言うべきことは言っていき

たいと思っています。このおことも覚えてお祈りに加えていただければ幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。私は聖餐については北村牧師に同

感する。かつて転勤でいった7年間過ごした京都の教会で初めて開かれた聖餐に与って、50年の信

仰生活の中でも新しい発見であり、大きな感動を覚えた。この終末京都に行き、その時の牧師が牧

会している教会の礼拝に行こうと思っている。それとは別にいじめの問題だが、北村牧師が数週間

前の説教で、自分がかけがえのない存在であるという自己尊重感をしっかり持っていることが大切

だというお話があったが、問題はどうしたら一人一人の子どもたちが自分が本当に大切にされてい

ると思えるようになるのかだと思う。親からも、クラスの友達からも受け入れられていないことを

感じている子もいると思う。私は教会学校がいじめられている子どもを受け入れる使命があるので

はないかと思っている。そういう子どもたちに神さまから見てあなたはかけがえのない大切な存在

であることを教え、そういう神さまのために働く喜びを教会学校で教えていく。教会学校に来てそ

のことを知った子どもたちが、友達にも伝えるようになっていったら素晴らしいと思う。それがい

じめの問題に教会が応えることであり、役立っていくことではないかと思っている。

 もう一人の方から発言がありました。神奈川教区性差別問題特別小委員会が昨日開かれた。教区

総会でも女性議員が少ないが、中には正議員になれないチャンスのない人もいる。信徒の場合には

そういうことはないが、現住倍餐が200名以上の教会でないと、担任教師は総会議員になれない。

その他にもキリスト教教育主事、無任所教師は推薦がないと議員にはなれない。殆どの主任教師は

議員になり、議決権がある。委員会ではそのことを話し合い、推薦枠を生かしてそういう議員にな

れない女性教職を推薦していくことにしようと考えた。その際こういう問題が話し合われた。性差

別をなくそうというこの委員会の考え方とは違う考えを持っている人もその対象者にいるかも知れ

ない。そういう人の場合はどうするかという問題である。性差別委員会では全部の人に手紙を出し

て、推薦議員に推薦したい旨を記し、本人の意思を確認することにした。数の多い教会では一教会

が教区総会に8名の議員を送っているところもある。現状では結局数の多い教会が数の論理で教区

総会を動かすことになっている。この問題についての性差別委員会の議論の過程で、自分の中にも

枠を引いているとことがあることに気づかされ、考え直すチャンスが与えられた。これからも自分

の中にある人を分けてしまうものに気づかされ、共に考えていきたいと思う。