なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(59)

     使徒言行録による説教(59)使徒言行録16:16-24、
             
・私たちは対立ではなく宥和な関係を求めます。争いではなく平和を求めます。それは、お互いに傷つけあうことなく、安定した生活をすることができるからです。けれども、イエスの福音は、そのような一見平和で安定しているかに見える私たちの生活の中にある偽善や隠れた暴力を見過ごすことはありません。実際イエスご自身、福音書によりますと、「あなたがたは、わたしが地上で平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとは嫁と、嫁はしゅうとと、対立して分かれる」」(ルカ12:51-53)とおっしゃったというのです。このイエスの言葉は、もちろん、人間同士が敵対して分裂している状態そのものが好ましいということを言っているのではありません。それは私たち自身もよくわかっていることではないでしょうか。シリアやクロアチアでは現在政情が不安定で、シリアでは内戦状態になっています。分裂対立する二つの勢力が武器を用いて戦っているからです。その戦いによって、双方に死者が出ているわけですから、この分裂対立状態が決してよいというわけではありません。一方そういう分裂対立が顕在化せずに、政治権力によって隠ぺいされて、見せかけの平和な状態が維持されていることがよいことなのでしょうか。内戦状態以前のシリアはまさにそのような偽りの平和のもとにあったのではないでしょうか。その偽りの平和が持つ暴力に耐えかねて、民衆が立ち上がって内戦状態になっているのでしょう。

・フィリピの町でパウロとシラスが祈り場に行く途中、「占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った」(使徒16:16)というのです。この女の人は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた(16:17)と言われています。現在でも人気のある占い師には多くの客がつき、相当の収入を得ている人もいるようです。このフィリピの占いの女の人も、彼女の占いによって自分たちの進むべき道を決めてもらっていた人が多かったのでしょう。この占いの女には、一人ではなく複数の主人たちがいたようで、彼らに多くの利益を得させていたというわけですから、相当の稼ぎをしていたことが想像されます。ところが、パウロとシラスが祈り場に行く途中、この占いの女が、二人の後ろについてきて、叫びまくっていたというのです。何と叫んでいたかというと、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫び続けていたというのです。

・真実(しんじつ、まこと)が現われる時、それまでの偽りの覆いが取り除かれて行きます。暗闇の状態の中では見えなかった風景が、太陽が昇って、朝日が差し込んできますと、はきりとみえるようになります。イエスの福音の光が差し込むことによって、それまでの呪術的な世界の闇が明らかにされて、人びとをその世界から解放します。イエスの神と、神に大切にされているわたしたち一人一人に気づき、神われらと共にいましたもうというインマヌエルの信仰に生きることによって、それまで従属していたさまざまな神々から自由に非陶酔的に生きていくことができるのです。そのような人は、自分の進むべき道を占いの指示によって決める必要がありません。自分を大切にして下さる方との対話によって、祈りつつ、神の招きに従って、自分の生きる道をきめていくのです。

・この占いの女に住み着いていた霊は、パウロとシラスの福音宣教の働きに触れて、自分が舞台から退く時を知らされたのでしょうか。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と女が叫び続けたのは、この女に住み着いていた霊によるものと言ってよいでしょう。占いの女は、二人に付きまとって、何日も繰り返し叫び続けたと言われています。たまりかねたパウロは、振り向き、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」(16:18)と女に言いました。「すると即座に、霊が彼女から出て行った」(同)というのです。

・ドイツのルター派の牧師にブルームハルトという人がいました。1800年代半ばから1900年代のはじめにかけて、父と子の2代に渡って、バルトなどに大きな影響を与えた人です。その父のブルームハルトがゴットリービンという悪霊に取りつかれたように狂い叫ぶ、恐らく精神的な病に冒されていた若い女性に、「イエス勝利者だ」と言って、その女性から霊を追い出し、病から解放したと言われています。

・このブルームハルトは庭に馬車を用意していたと言われます。何時再臨のキリストが来て、神の国がやってきても、すぐに駆けつけることができるためだったというのです。子供じみたようなばかばかしいブルームハルトの逸話に思われるかも知れませんが、彼は、神の支配としての神の国がイエス・キリストによって私たちの中に到来していることを素朴に信じ、その神の国がキリストの再臨によって完成するその時を待ち望んでいたのです。ですから、その時が来た時には、すぐにキリストの下にかけつけことができるようにと、庭に馬車を用意していたというのです。それほどにブルームハルトは、勝利者エスを信じて、そのイエスがもたらした神の国を、彼の時代と社会の中で生きたのです。

・フィリピにおけるパウロとシラスによる福音宣教も、イエスの十字架と復活による神の国の到来を告げるメッセージだったと思われます。パウロが叫びながらついて来る占いの女に、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」と言って、女から霊を追い出したのも、勝利者エスによる神の国の到来を信じるならば、占いの女の行為はその場所を持たないからです。

・けれども、フィリピにおいては、そのことがパウロとシラスに苦難が降りかかることになりました。「霊が女から出て行ったために、この女の主人たちは金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえて、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った」(19節)いうのです。そして「この者たちは我々の町を混乱させています。ユダヤ人であります。そして我々ローマ人である者には受け入れることも行うことも許されないような習俗を唱えております」(20節、21節、田川訳)と訴えたというのです。その訴えは、「群衆も一緒になって二人を責め立てた」と言われていますから、この占いの女の主人たちの利害に関わることだけではなかったと思われます。恐らくフィリピの町全体の秩序に関わる問題であったに違いありません。「高官たちは二人の衣服をはぎ取り、『鞭で打て』と命じた」(22節)というのです。「そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、二人を一番奥の牢に入れ、足には木の足枷をはめておいた」(23,24節)と、使徒言行録には記されています。

・高橋三郎さんは、これは違法行為ではなかったかと言っています。ここでは、事実審理も行わず、正式の判決も下さず、いきなり処罰が命じられている。「これ自体違法行為であったばかりでなく、この鞭打ちを何度も繰り返したのち、奥の獄屋に入れ、足にはしっかりと足枷をかけたというのだから、刑罰としても異常なきびしさであった。かくまで激しく反応せざるをえなかった二人の『犯罪』とは、何であったのだろうか」と問うています。そして、「こう問いかえしてみると、ローマ人をユダヤ教に改宗させてはならぬという定めを破ったことが、ここでの争点として浮かび上がってくる(彼らから見ると、キリストの福音とユダヤ教とは、区別できなかったに違いない)。そしてパウロとシラスは、聴衆の中にローマ人がいたとしても、はばかることなく福音を宣べ伝えたに違いないから、ここに提訴されていることは、全く見当外れではなかったのである。そして間もなく、キリスト者に対するローマの迫害は、全国規模で燃え上がることになる。ローマに大火災が起こり、これはキリスト者による放火のためだとして、ネロが大迫害に乗り出したのは、紀元64年のことであった。ルカはこの事実をすでに背後にしながら、この記事を書いているのである。/このように辿ってみると、パウロとシラスの上にきびしい処罰が加えられたのは、きたるべき大迫害の前ぶれと言うことができよう」。そしてフィリピの町はローマの植民都市であって、退役軍人がその町を治めていたであろうから、使徒言行録でパウロらを裁いた高官も軍人だった人で、この法廷は一つの軍事法廷だったのではないかと想定しています。そのような軍事法廷で、しかも異教を排撃しようとするナショナリズムまで加わったとすれば、「パウロとシラスがかくも苛酷な取扱いを受けるに至った理由も、さこそ頷くことができるのである」と言っています。

・この高橋三郎さんの想定が事実であるのかどうかは分かりません。しかし、パウロとシラスが鞭打たれ、投獄されたのは、パウロの福音宣教にローマ社会の秩序を混乱させるものがあったということは疑い得ないのではないでしょうか。パウロはコリントの信徒への手紙一の7章31節で、「この世のことにかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」と語っています。このことは、この世のことはキリスト者にとってどうでもよいということを言っているのではなりません。この世の生活は、パウロにとてってはおそらく神の栄光を表す場として大切に考えられていたと思われます。しかし、人間の営みは永遠ではないこと、この世の有様はすべて過ぎ去るものであるということを十分認識いた上で、その過ぎ去るべきこの世の生活において、変わることのない永遠に意味のある神の国の完成を信じて、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、命ある限り、その証言者としてこの世に生き続ける。そのような気持でいたのではないでしょうか。

・宣教によって起こる波風は、平和を求めるがゆえに、偽りの平和を否定し、対立と分裂を通して平和の実現を願い求めて行く時に、ある意味では必然的に起こるものではないでしょうか。イエスの十字架への道行きもそのことを明確に示しているように思われます。イエスは、神の国を宣べ伝え、ユダヤ社会の周縁に追いやられている様々な苦しむ人々との共生を実践しました。イエスの十字架は、そのことを快く思わなかった権力者とその同伴者による処刑を意味します。そうだからこそ、私たちも、対立や分裂を恐れずに、イエスの福音を宣べ伝え、少しでもその福音にふさわしい生活をしていく者でありたいと願います。