なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(376)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(376)復刻版を掲載します。2006年12月のものです。

 11日(火)と12日(水)と一泊二日で伊豆大島に行ってきました。そのためにブログは2日お休み

しました。11日は東北大震災から丸3年目の日です。教団では東日本大震災国際会議が11日(火)か

ら14日(金)にかけて仙台で行われていて、ちょっと気にかかることもありましたが、大分前に予定を

組んでいましたので、予定通り行ってきました。

 今朝のテレビでも災害後の大島のがれき処理のことが放映されていました。私たちがバスで回ったとき

にも、何か所ものがれき置場が目につきました。一つのかれき置き場には、コンテナがいくつもあって、

そのコンテナには「がんばろう東北大震災復興!」と書いてありましたので、何かと思っていましたら、

今朝のテレビで、大島のがれきを島外に出して処分するということが言われていましたので、東北大震災

で使ったコンテナが大島に運ばれていたのだと、納得しました。災害後大島にはダンプの数が増えて、バ

スの運転手さんも、お休みの日はダンプを運転しがれき処理に当たっているとのことでした。東北と同じ

ように災害復興はまだまだのようでした。
 

  
         黙想と祈りの夕べ通信(376[-11]2006・12・10発行)復刻版


 10月末に開催されました日本基督教団の総会で私は常議員に選ばれ、教団新報の係りの人が写真を撮ら

せてもらいたいというので、顔写真を撮られました。その後人となりの紹介記事を教団新報に出すので

と、アンケートをと頼まれ、メールで返信しました。12月に入って、私個人宛に2部教団新報が送られて

きました。そこには、三役の記事に加えて、今回の教団総会で新しく選ばれた14人の教職常議員のプロ

フィールの掲載記事があり、先日送った私のものも顔写真と共に載っていました。改めて14人の教職常議

員の顔ぶれを眺めていて、はたと気づきました。その中には女性教職は一人もいません。14人とも男性ば

かりです。信徒常議員はどうか調べてみましたら、13名中女性常議員は一人だけです。つまり、第35回・

合同後20回教団総会期の常議員会は三役を含めて30人の内女性はたった一人なのです。浅はかでしたが、

これにはびっくりしました。性差別問題連絡会の会報でその点に触れられていたのを思い出しました。U

さんの文章に、【《常議員会構成は「オトコ」ばかり》・・・選ばれた27名の常議員が壇上に上りました

が、「女性」はNさん一人。プラス議長・副議長・書記が「男性」となると、常議員29名の「男性」と1名

の「女性」で構成されるのです。教会の現場の状況とナント乖離していることでしょう!!・・・そしてま

た、その様(さま)は、まるで教団に「女性」教職はいないかのような景色だったのです。・・・】とあり

ました。本当におかしなことですが、これが教団の現在の状況でもあるのだと思います。

 第33回・合同後18回教団総会で教団の性差別問題特別委員会が靖国天皇制情報センターと共に廃止さ

れてしまいました。第34回・合同後19回教団総会で性差別問題特別委員会の再設置の議案が出ましたが、

僅差でこれも否決されてしまいました。今回の第35回・合同後20回教団総会では東北教区から性差別問題

特別委員会の再設置の議案が出ていましたが、全国的には第33回合同後18回総会以後性差別問題連絡会の

形で自主的な活動が継続していますが、連絡会の方は今回の総会に再設置の議案を出しませんでした。今

の教団では例え再設置が通ったとしても、その委員会の委員の構成によっては活動が骨抜きになってしま

うことも考えられるからだろうと思います。ですから、連絡会の形で自主的に活動していく方がベターで

はなかという判断ではないかと思います。長い間積み上げられてきた性差別をなくそうという運動によっ

て、教団の性差別問題特別委員会が設置されたにも拘らず、財政上の問題を優先してこの委員会を4年前

の総会で廃止した教団の総会で今回選出された常議員27名の内女性がたった一人であったというのは、偶

然とは思えません。

 この問題の背後には教団の宣教理解の問題があるように思われます。1960年代になって教団の宣教論は

個人の回心を目標とする伝道論から人間の全的な解放を射程にした宣教論へと徐々に変わっていき、1967

年に戦責告白が鈴木正久議長名で出て、1970年の万博問題、東神大問題以後、さらに教団の宣教論の問題

が深められていきました。私は1980年代前半名古屋のG教会に在任していた時から、「交わりの回復とし

て福音」というような言い方をして、イエスの福音は、神と人間、人間と人間との交わりの回復にあるこ

とを語ってきました。個人の回心乃至は救済を福音ととらえている方には、なかなか通じないかも知れま

せんが、交わりの回復としての福音からすれば、性差別の温存は福音に反する事柄です。ところが、4年

前に経済的理由を第一にして性差別問題特別委員会を廃止した教団は、1990年代後半から「それいけ伝

道」論が復活し、教団の大勢では人間の全的解放を射程にした宣教論が教団問題に終始した不毛の40年の

元凶とされるようになっています。ですから、「それいけ伝道」論からすれば、伝道にとって性差別の克

服は殆ど問題にはなりません。一人でも多くの信徒を獲得することが目標ですから。そういう教会では必

ず性差別の再生産がなされていくでしょう。けれども、解放の真理性とその喜びをもたらす宣教論は、反

動としての伝道論を越えて、揺れ戻しを受けながらも着実に進展していくに違いありません。