なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(375)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(375)復刻版を掲載します。2006年12月のものです。


       黙想と祈りの夕べ通信(375[-10]2006・12・3発行)復刻版


 このところ朝のニュース番組で夕張の町のことが放映されています。先週の黙想の祈りの中でも触れら

れていましたが、住民、特にお年寄りの年金生活者には大変厳しいようです。夕張の場合は行政の施策の

失敗もあるようですが、弱い立場の人たちが更に厳しい状態に追いやられるのは、見過ごしにできませ

ん。格差社会と言う言葉が飛び交うようになっていますが、現在の日本の社会は文字通り格差が広がって

いるのではないかと思います。正社員は少人数にして、派遣やパートの賃金の安い働き手で会社を経営す

るのが、合理化を徹底した優良会社であると言われると、ちょっと待ってください、と言わざるを得ませ

ん。優良会社なら、派遣やパートで賃金を低く押えるのではなく、すべての社員の生活を保障するのが当

たり前ではないでしょうか。今のような社会が続いたら、生活の格差が広がり、富める人と貧しい人の二

分化がますます進んでいくでしょう。アメリカはもうそうなっているようです。ゲイテッド・コミュニ

ティーと言って、ある程度富める人だけのコミュニティーを作って、塀で囲んで貧しい人は入れないとい

うコロニーのようなものが出来ているそうです。今日お年寄りをお見舞いをして、余りに良い天気でした

ので、紅葉に惹かれて港北ニュータウンの森林の中に通じている道を歩いて地下鉄のセンター南まで行き

ました。その途中に、この辺なら野宿者がブルーシートでねぐらを作るのに適していると思われるような

場所に看板があり、不審者(車)を監視するような言葉が書かれていました。これも一つのゲイテッド・

コミュニティーの表れではないだろうかと、その場所を通りながら思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。この前の日曜日には日曜学校で収穫感謝

を覚えて、野外礼拝をした。しばら日曜学校では収穫感謝の特別な集いはしないできた。かつては自分の

家でできた野菜や果物を持ち寄って、収穫感謝の礼拝を持ち、その後どこかに持っていくことをしてい

た。今は家でできる収穫物がないのでやめた。今回「分かち合い」というテーマで収穫感謝の野外礼拝を

企画した。私が説教を担当した。かつては分かち合いというと、福祉的なもてる者がもたざる者に分かつ

という風に考えられてきたところがあるが、今回は参加者がお互いの喜びを共有する分かち合いを心がけ

た。どんなに小さなものでも持ち寄ってみんなで分かち合うことが本当の分かち合いだと思った。バーベ

キューの食事が終わって、紅葉で美しい樹木の下、落ち葉が敷きつめられた所でダルマさんころんだとい

うゲームを子供たちがしていた。大人たちは後片付けをしながらその様子を見ていたが、子供たちの真剣

な姿が印象的だった。教会の前の道路は教会の壁に繁っている蔦の落ち葉が散在していると、それはゴミ

にしか見えない。自然の中で落ち葉が大地に敷きつめられた木の下で子供たちが一緒に喜んでいるその姿

が正に豊かな自然と人間の分かち合いであることを教えられた。

 もう一人の方の発言が続きました。私は黙想と祈りの夕べも最後だと思って、今日は来た。転職して職

場が江東区になるので、いずれ転居して教会も変わらなければならない。この黙想と祈りの夕べへの出席

者がなぜ少ないのか考えさせられる。自分も多く出ているわけではないが、後ろ髪を引かれる思いであ

る。今の会社を12月一杯と言われ仕事を探しはじめ、当初60歳では新らしい仕事は無理と言われてあせっ

たが、仕事が見つかってよかった。数ヶ月したら千葉の方に転居して、教会を探そうと思っている。

 また別の方から発言がありました。この間の日曜日は娘のところに3番目の男の子の赤ちゃんが生まれ

たので、祝いに行って来たので礼拝には出られなかった。最近は科学の進歩で、生まれる前から性別が判

明する。娘のところでも男の子と分かっていたので、名前を考えていた。元気。上の4歳の子が大変喜ん

でいた。名前がすでに決まっていて、待ち望まれて生まれたということで本当によかったと思った。合同

礼拝の子供の誕生祝福のときに、こどもさんびか80番で「生まれる前から・・・」と歌われるが、今までは

ピンと来なかったが、娘の今度の子供の誕生を経験して、本当にそう思えた。名前を生まれる前からつけ

ることの意味を感じた。