なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(19)

  10日に続けて、飛ばしていました「黙想と祈りの夕べ通信(19)」(復刻版)を掲載します。
 
 黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 19 2000・2・6発行)
 
 23日の日曜日に札幌にいるY兄が、久しぶりに礼拝に出席しました。教会の餅つきに参加した後、数名でお茶を飲み、話す機会が与えられました。彼は経営者の側の立場の人で、その時も、企業における女性差別の問題について、自分が関わる企業にはカウンセラ-のような方を置いて対応しているという話をしていました。Y兄は紅葉坂教会で青年時代を過ごし、その頃青年会で私も一緒でしたが、こういう言い方は失礼とは思いますが、結構「男権主義者」だったように記憶しています。けれども、慎重で平衡感覚の優れた人ですから、企業における女性差別の問題についても敏感に感じられたのでしょう。Y兄から、その話と共に、もう一つの女性の問題について話を伺いました。それは女性の虐待のことです。彼は札幌で実業家の文化事業のグル-プに入っているようで、そこに、私たちの教会でも対外献金から少しの支援をしています「みずら」のようなグル-プから支援の要請がくるということです。彼から企業におけるセクハラの問題と共に女性の虐待の問題についての話が聞けたのは、思いもかけないことでしたが、それだけにこれらの問題が大変身近に起きているということではないかと思わされました。夫の妻への虐待が広がっているという事実は、小さな子供への虐待の広がりと共に、大変悲しいことです。そのことが私の心の中にありましたので、30日の礼拝の牧会祈祷中で触れさせてもらいました。祈っている時に、抽象的にならないようにという意識が働いたようで、「みずら」に関わっているFさんの名前を出して祈りました。後で、礼拝後の聖歌隊の新年会で、牧会祈祷に個人の名前を出して祈ったのは、紅葉坂でははじめてではないかと言われました。
 2月2日のボンフェッファ-の言葉に、「地上における人間の生は、ただ身体的生として存在することが、神の意志であるゆえに、身体は全体としての人間のために維持される権利をもつのである」とあります。私は30日の「黙想と祈りの夕べ」での「分かち合い」で、虐待のことをボンフェッファ-のこの言葉と関連づけて、感想を述べました。「身体的生として存在することが、神の意志である」とすれば、その身体に暴力をふるうことは、たとえ誰であっても、あってはならないことだと思います。
 その日の「分かち合い」では、もう一つ別の話がありました。ちょうど「黙想と祈りの夕べ」が始まる直前に、私たち夫妻が紅葉坂教会に来てからず-と、「紅葉坂教会は差別教会だ。そのような教会の牧師でいることを恥ずかしいと思わないのか」と抗議の電話を受け続けているF氏からの電話を受けた妻が、彼の心の傷(トラウマ)について語りました。F氏と当教会との不幸な関わりについての詳しい事情は分かりませんが、彼の心の中に紅葉坂教会との関係から傷を受けたという思いがあり、その思いが朝起きるたびに甦ってくるF氏は、その抗議の電話を受ける私たち以上に苦しいのではないかと。
 私たちには身体に加える暴力と、直接的な暴力ではありませんが、私たちの言葉や態度が相手の心を傷つけるということがあります。どちらも、踏まれた側、受けた側は決して忘れられないものでしょう。細心の注意を怠らずに他者と関わりたいと思います。けれども、他者を全く傷づけずに生きることも、私たちには不可能ですから、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ」と祈りつつ、謙虚に他者と共に生きて行きたいと願います。