なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(18)

 9月11日、明日の日曜日は私は船越教会から夏期休暇をいただきましたので、船越通信は出しません。一回お休みします。8日から10日まで(今帰ったところです)は、連れ合いと二人で乗鞍・上高地の自然を楽しんできました。雄大な自然の姿に圧倒された3日間でした。鶴巻に来て、丹沢の山並みを見るようになって、紅葉坂にいた時とは、日常の風景が大分違っていると感じていました。鶴巻では自然の豊かさに触れられると、嬉しく思っていました。しかし、上高地河童橋からみる穂高連峰や焼岳は、鶴巻とは全く違う自然を見ているようで、訴えてくるその迫力に圧倒されてしまいました。またゆっくり行って見たいと思います。
 さて、「黙想と祈りの夕べ通信」(復刻版)18,19を飛ばしてしまいましたので、今日は18を掲載します。
 
  黙想と祈りの夕べ
   (通信№ 18 2000・1・30発行)
 
 ちょうど23日の日曜日のキリスト教入門講座で、絶望について扱いました。ブルンナ-の『我等の信仰』の20「信仰と絶望しないこと」という項目です。ブルンナ-は、気分としての絶望とは別に、「到達点(目的)としての死と地獄」を絶望と言います。「死と共にいっさいが終わるとしますならば!
これ以上絶望的なことはないでしょう」。そして、死に対して私たちには何らの逃げ路もないと言うのです。死は、「いっさいのものが、美しいものもみにくいものも、善いことも悪いことも、価値あるものも価値なきものも、すべて選ぶところなく呑みこまれざるを得ない巨大な空洞」だと。「わたしたちが創り出したいっさいのものを、わたしたちが愛の中ではぐくみ育てまた建てあげたすべてのものを、その荒々しい手にひっつかんで巨大な空洞に投げ込んでしまう先生、それは『死』ではないでしょうか?」と。また、ブルンナ-は、そのような死が望ましい逃げ路に思えるほどの別の絶望があると言います。それは良心の呵責とでも言いましょうか、自分でしたことに対する懲罰への恐れ、不安なのです。地獄と呼ぶかどうかは別として、そのように死が逃げ路に思えるほどの絶望があるとすれば、それはまさしく地獄以外の何物でもありません。
 今日、私たちは死を恐れ、自らの行為への懲罰を恐れるということが、どれだけあるでしょうか。私たちの現在の社会は、そのような実存的な不安から私たちの目をそらす操作に満ちているように思われてなりません。休日のときに、MM21に行きますと、沢山の人で溢れています。もちろん、ショッピングを楽しむ人もいるでしょうが、案外買物袋をさげて歩いている人は少ないのです。圧倒的に多くの人たちは、刺激とやすらぎを求めてMM21に来ているように思われます。テナントには多様な商品があります。それを見て回るだけでも、時間を過ごすことができます。いろんなイベントが行なわれていて、一時的な楽しみを与えてくれます。ビルの外に出れば、海があり、公園があり、遊ぶ所もあります。暇をつぶすには、もってこいの場所なのかもしれません。商業主義は手段を尽くして人を集めますから、それに乗れる人は、街をぶらつくだけでも、結構孤独や絶望をやり過ごすことができるのでしょう。また、興味の向くものを持っている人は、それに集中することによって孤独や絶望から逃亡できます。けれども、それは一時的であり、孤独や絶望がなくなるわけではありません。
 吉本隆明は、高齢者の問題に触れて、「老人が生活していけるだけの年金が支給されることと、定年を延すること。この二つができたらいちおう高齢社会の外堀は固められたと言っていい」と言います。後は死をどう考えるかだ。そして、「老若というものは、本当に向き合えば、財産、過去の社会的地位、また充実した年来生きてきた達成感など、すべてをあげても代替できない孤独だったり、絶望だったりがあるものです。…今のところ生の領域を死の彼方まで拡張し延長しようとする宗教の存在で、このことに対抗しているのが一般的な状態です。この問題はまだまだ解決するところまで人間は到達していないと思います」と。
 このまだ人間にとって未解決な、死とどう向かい合い、孤独や絶望をどう乗り越えるかという課題に、私たちなりに答えていかなければなりません。ブルンナ-は、何物によっても引き離し得ないイエス・キリストにおける神の愛にその乗り越えの道を見いだしているように思われます。