なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(15)

マルコ福音書による説教(15) マルコによる福音書4:1-20
         
    ・ 3章の後半(19a~35)では、律法学者やイエスの身内の者たちがイエスの 前に敵対者(人間同士の中に隔てをつくる)として、或は無理解者(神の  家族の)として登場することにより、イエスという方がどのような方であり、何を志向しようとされているかが、逆説的に証示されていました。
    ・ 4章には入りますと、場面は一転して、海辺に集まる群衆に向かって、海上にある船の上から「譬え」で教えを語っておられるイエスとその譬えが記されています。
    ・ 学者は、この4:1-10を次のように推定しています。3-8節がイエスが実際にかたった「譬話」であり、14-20節は教団の寓諭的解釈で、原始教団が直面している「困難や迫害」(17節など)によって、信仰を失ってしまう人々が実際に出たという現実に対して、そのようなことのないようにとの「警告」に強調点が置かれていると言われています。10-13節は、解釈が難解と言われている箇所でありますが、11節で、「神の奥義が授かれられているあなたがた(弟子とイエスのそばにいた者たち?)と「すべてが譬えで語られるほかの者たち」(外の人たち)律法学者や身内の者たち(つまりイエスの敵対者?)との違いが述べられ、「外の人たち」は、結局イエスの譬えを悟らないのだと、イザヤの言葉が引用されて、断定されます。そして更に、13節では、弟子たちへの批判の言葉が加えられ、結局両者は質的には同じであって、差別はないことが明らかにされ、14節以下の譬えの解釈へとつながっているのであります。
    ・ この種まきの譬えが具体的にどのような情況において語られたかということは、分かりません。ですから、ある意味で受け手の側によってどうにでも解釈が可能である、という面を譬えは持っています。14節以下の恐らく原始教団の解釈が果たしてイエスの意図に即した解釈であるかどうかは、決定できません。ただ「譬え」話そのものが本来その受け手に解釈を委ねるという面がある以上、この解釈が不当だということではありません。事実注解者の中には、この解釈がイエスの譬えの解釈としてほぼ当を得たものだという判断をする者が多いのです。
    ・ さて、今日は3-8節のイエスの譬えそのものを中心に、そこからメッセージを与えられたいと思います。この譬えに出てくる風景は、パレスチナに住んでいる人々にとってはごく日常的な風景であります。幼い子供であっても、ここに描かれている風景そのものは、身近なものであって、決して難解な事柄ではありません。農耕文化に少しでも接している民族であるならば、イエスと同時時代の人々だけでなく、誰でもが感覚的にも捉えられる風景です。地に蒔かれた種が、成長して豊かな実を結ぶには、蒔かれた地が「道ばた」や土の薄い「石地」や「いばらの中」ではなく、「良い地」でなければならないということは、われわれの経験的な事実であります。イエスが「聞きなさい、種蒔きが種を蒔きに出て行った」と言われたとき、実際に畑で忙しく種を蒔く種蒔きを指差して言われたかもしれません。即興的にこの譬え話がイエスの口から語られたということも考えられます。
   ・  バ-クレ-は、「譬えは、まず第一に、読まれるためではなく、聞かせるものであった。まず第一に、句から句、語から語へとゆっくりと調査し研究することは出来なかった。時間をかけて余暇のあるときに、研究するために話されたのではなく、即座の印象と反応を引き起こすために話されたのであった。すなわち、譬えは決して比喩として取り扱われてはならない。比喩のすべての出来事、人物、細部は象徴的な意味をもっている。もしそうであるならば、明らかに比喩は読み、研究し、試験し調査すべきである。しかし譬えは一度、ただ一度だけ、聞かされるようなものである。ゆえにわれわれが譬えの中で探さなければならないものは、すべての細部が何をあらわしているかというような情況ではなく、一つの優れた考えが飛び出し、稲妻の閃光のように輝いた情況である。譬えのすべての細部を何か意味あるもののようにする試みは間違っている。『人がその物語を聞いたとき、どのような考えが、その中に閃いたか』ということが常に正しい」と言います。この譬えについてのバ-クレ-の説明は当を得ているように思われます。つまり、イエスの譬えを、何か理論的な文章を読むように、この意味は何か、これはどうかと言って分析しても、無駄なのです。
    ・ それ故、「聞きなさい」という最初のイエスの言葉が重要です。イエスの敵対者たちは、はじめからイエスに聞こうとする姿勢を持っていないが故に、『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』と、イエスに言われているのです。イエスと私達の関係は、人格的な関係ですから、信従が成立しない場合には、たとえ弟子たちであったとしても、イエスから遠いのです。13節で「また彼らに言われた、『あなたがたはこの譬えがわからないのか。それではどうしてすべての譬えがわかるだろうか』と、弟子たちが批判されていますが、これは、イエスへの徹底的な信従を促す言葉と理解できます。とすれば、弟子であるとか、群衆であるとか、律法学者であるとか、身内の者であるとかという、イエスと出会う人が、その時既に持っている自分の立場は、イエスとの出会いにおいては、全く問題とならないということです。問題は、そこで真剣にイエスと彼の言葉を聞き、それを受け入れ、それに基づいて生きるか否かということになります。
    ・ そこでこの種蒔きの譬えは何を私たちに語っているのでしょうか。この譬えをテキストにして、以前紅葉坂教会時代にお呼びしたHさんが説教をしました。そのHさんの説教は大変刺激的でしたので、紹介させていただきたいと思います。以下はHさんの説教の要約です。
    ・ マルコによる福音書4章、「種まきが種をまきに出て行った」という風に書かれています。種まきが種をまく、ずっと小さいときから疑問だったんですけれども、ひょっとしたら皆さんも疑問に思っているのかもしれません。何んで種まきはすべての種を良い地にまかないんだろう、と思うわけです。種をまく人なんだから、自分がどこにまいているくらい分からないのか。たとえば私が種を十個渡されて、それをまきなさいと言われたら、わざわざ道端に放るかなあーと思わされるのです。どうしてこのたとえ話では、道端や石地や、また茨の中に種がまかれていくのかと、ずっと疑問に思っていました。種まきと言われているように、その種をまく人はその種が実を結ぶように、実を結ぶようにと祈りを込めてまいているはずではないでしょうか。
    ・ このたとえ話は、その後に続く聖書の箇所で説明がされているわけです。その種はみ言葉であるという風に説明され、そのことを受け止める私たちが良い地になっていこう、そのように読まれてきたかもしれません。しかしながら今日は他の解釈の可能性もあるんじゃないかなー、と思う中で、この聖書の箇所を読んでみたいと思います。いつも残されている可能性の一つ、ちょっとした想像かもしれませんけれども、考えたいと思います。
    ・ 種まきの譬えの中で、種という風に言われているのは、私は命であると思っています。存在として根を張り、生き抜き、関係につながり、実を結んでいく、そのように祈りを込められた命であると思うわけです。まず命はまかれている と聖書には書かれているんじゃないでしょうか。まず命はまかれている。しかし、ある命は道端に追いやられ、ある命は石地にあり、またある命は茨の中にある。まかれた地によって生きる現実が切り分けられていく。まかれた命の現実によって、その命の生き死にが左右されてしまう。そのことをあなたはどう受け止め、見つめ、一緒に生き合っていこうとするのか、そういう問いかけが、この聖書に書かれている言葉から響いてきます。
    ・ エスが語っているこの種の譬えは、まかれた命が根を張り、生きようとする現実が切り分けられていることに対する抗議の言葉ではないかと思うわけです。私自身は、この種の話から鋭く問われていると感じています。命が道端に追いやられているのに、命が石地で存在としての根を張るのを阻まれているのに、命が茨の中でもがき苦しんでいるのに、その生きるということを奪われ放置されてしまっている現実を、良い地で生き抜こうとしている者は、眺めているのかもしれません。良い地にいる者は、ひょっとしたらその現実をどう見つめているんですかという問いかけが、含まれているように思うわけです。良い地になって行こう、良い地になって行こうという方向ではなく、その茨や石地や道端にある命、そこにある現実、その責任を問われているのはむしろ良い地にある種ではないでしょうか。
   ・  皮肉にも抗議と抵抗の意思をこの聖書の言葉から感じてしまいます。そんな風に聖書を読んでしまうのは、ちょっと逸脱しているんじゃないかと思われるかもしれませんけれども、私自身はそのように読めます。私たちの生きる現実は切り分けられています。それがあたかも運命として仕方ないんじゃないかと放置されることもあります。生き抜くことが困難な場、生き抜くことが困難な状況、そのようなところがいっぱいあるのが私たちの日常ですし、この世の、この世界の現実だろうと思います。しかし、そのすべてを良い土地へと耕していくことは、今生きている人すべてに問われている責任かもしれません。道端にある命を道の真ん中に、石地から石を取り除き、茨を切り開いていく、耕すという小さな小さな人間の業こそ命の神に応答する姿なのかもしれません。互いに命を育み合う、そんな日常を、そんなこの世を、そんな世界をという祈りを込めて、この言葉を読みたいと思います。
     ・ 私はHさんのこの種蒔きの譬えによる説教を聞いて心打たれましたので、ここで紹介させてもらい、私の説教を終えたいと思います。