なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(517)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(517)復刻版を掲載します。2009年8月のものです。


        黙想と祈りの夕べ通信(517[-44]2009・8・23発行)復刻版


 8月は黙想と祈りの夕べはお休みです。

8月19日(水)朝6時半過ぎにK・Hさんの帰天の知らせを受けました。既にHさんの帰天は時間の問題に

なっていましたので、前以てK・TさんからHさんの愛唱讃美歌と愛唱聖句のメモを、私は受け取っていま

した。前夜式も葬儀式も聖書箇所と讃美歌はHさんの愛唱のものにしました。葬儀式ではヨハネによる福

音書12章24節、25節「「一粒の麦は、地に落ちなければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実

を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命

に至る」を取り上げ、この聖句を思い巡らしました。その要約をここに載せたいと思います。

「一粒の麦は、地に落ちなければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という譬えは

、種が蒔かれ芽を出し実を結ぶという植物の生態からよく理解できます。イエスの種蒔きの譬えでは、

良い地に落ちた種は、道端や石だらけの所や茨の中に落ちた種とは違い、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ

と言われています。この一粒の麦の言葉は、その前に語られたイエスの言葉「人の子が栄光を受ける時

が来た」がイエスの十字架の時、つまりイエスの死の時が来たことを意味しますから、イエスの十字架

の死が、多くの実を結ぶ、すなわち多くの人に命を与えることになる、と言うのです。そして、一粒の

麦の譬えに続いて、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保

って永遠の命に至る」という言葉があります。それにしても、「自分の命を愛する者」が、何故それを

失い、「自分の命を憎む者」が、何故「それを保って永遠の命に至る」というのでしょうか。たとえば、

「神を愛すること」と「自分を愛するように隣人を愛すること」というイエスの教えでは、自分を愛す

る、つまり自分を本当に大切にすることのできる人間こそ、隣人も自分と同じように大切にできるので

あって、自分を愛せない人間が、どうして隣人を愛することができるかと、言われているように思いま

す。このイエスの教えの趣旨からすると、ヨハネ福音書の「自分の命を愛する者は、それを失うが、こ

の世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠お命に至る」という言葉は、理解し難いものがあるよう

に思われます。特に自分の命を憎む者がどうしてそれを保って永遠の命に至るのでしょうか。この箇所

の本田哲郎訳は、「自分自身に執着する者は、自分を滅ぼし、この世にからめ取られた自分自身をにく

む者は、永遠のいのちに向けて自分を守りとおすのだ」と訳されており、この訳だとよく分かります。

八木誠一さんは「自分自身に執着し、この世にからめとられた自分」を「自我」と言います。通常人間

はこの自我だけで生きていて、神の命につながり神の働きを担う神の国の住人(神の子)としての「自

己」から切断されているというのです。しかし、信仰は自覚を通して自分の中にある「自己」を発見し、

信仰者は、その自己に影響されて変化していく「自己→自我」を生きていくのだというのです。言葉を

換えて言えば、信仰者は、自我に死んで、自己に不断に生きるということでしょう。死んで生きる生を

歩んでいる信仰者にとって、人間の肉体的死は永遠の命(永遠に意味ある生)に至る歩みの一里塚に過

ぎません。その人生は神がその人に貸与してくださった時間です。人生の旅が10年の人でも、100年の人

でも、その貸与された時間を永遠の命に至る歩みを生きているならば、時間の長短は本質的な問題では

ありません。私たちは永遠の命に満ちる終わり、完成の途上を生きている者です。その完成は、聖書に

よればこの世の人間の営みの延長線上にあるのではなく、神によって歴史を切断する形でもたらされる

終末論的な出来事です。

この一粒の麦の聖句を愛唱聖句として歩まれたK・Hさんは、永遠の命に至るこの世の旅路を歩み終えて、

今神さまのところに帰って、これからは天上から永遠の命の証人として、地上に生きる私たちを見守っ

ていかれることでしょう。これからは、天と地と、そのいる場所を異にしますが、永遠の命に至る途上

にあるということにおいては、Hさんも私たちも神にあっては一つであることを信じ、K・Hさんを神さま

にお委ねしたいと思います。  
  

           「生活の質」        8月23日 


 早い死を受け入れることはとても難しいことです。七十代、八十代、九十代の友人が亡くなった時、友

が一人いなくなってしまったことを非常に残念に思うでしょうが、一方ではこの方が長生きしたことを感

謝します。しかし、十代の子どもや、若者、働き盛りの人が亡くなると、私たちは、心に抗議が沸き上が

るのを感じないではいられません。「どうして? どうしてそんなに急に?どうしてそんなに若く? 不

公平ではないか」。

 けれども、年の数よりはるかに重要なことは、私たちがどう生きたかです。イエスは若くして死にまし

た。聖フランチェスコも、リジューの聖テレーズも、マーティー・ルーサー・キング牧師も若くして死に

ました。私たちは、自分がどれくらい生きるのかを知りません。けれども、知らないからこそ、私たちは

人生の毎日を、毎週を、毎年をあますところなく生きるように呼びかけられているのです。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)