なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(42)

   マルコ福音書による説教(42)マルコによる福音書10:17-31、
               
・今日の聖書のとこには、「金持ちの男」のことが記されています。同じ記事のマタイ版では、「金持ちの青年」となっています。ですから、この物語は、「富める青年の物語」として、語り伝えられてきました。この物語を読みますと、まず私たちが感じさせられますのは、あり余る財産を持ち、誰が見ても道徳的にも立派に見える人が、それだけでは必ずしも幸福で、毎日喜びと充ち満ちた想いをもって生きている祝福された人ではないということであります。その点が、この金持ちの男の物語を読んで、問い掛けられている一つのことではないかと思います。

・私にとって、祝福された人のイメ-ジは、山上の説教の中でイエスが語られた「空の鳥」「野の花」のように生かされてある生を無心に生きる人です。また、この前学びました愛されてある「幼な子」のような無垢の人です。そのような「ただありのままに」生かされて生きている人の姿です。

・資産家であり、道徳的にも申し分のないこの金持ちの人は、「ただありのままに」毎日を喜んで生活することができませんでした。この金持ちの人の心は、穏やかで、満ち足りてはいませんでした。沢山の資産があり、当時のユダヤの社会では善良な立派な人だと思われながら、満たされない何物かがあって、それが彼を不安にしていたのでしょう。17節を見ますと、「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか』」と。この金持ちの男がいかに思い詰めていたかが、このイエスに出会って彼がとった行動に現れています。

・もうひとつ考えさせられる点は、この男は、イエスの言葉を聞いて悲しみながら立ち去ったということです。この金持ちの男は、イエスからどんな言葉を聞いたかと言いますと、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」という言葉です。この言葉によって、イエスは金持ちの男の、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という質問に答えたのです。すると、この金持ちの男は、「この(イエスの)言葉に気を落として、悲しみながら立ち去った」というのであります。「たくさんの財産を持っていたからである」と、解説が加えられています。

・つまり財産を多く持ち、道徳的にもまれに見る程立派な人が、それでも満たされないで不安を持って生きていたとき、イエスと出会って、その不安を取り去る機会に恵まれたにも拘らず、財産が邪魔をして、彼に肝心な決断をさせることを断念させたというのです。財産というものは、それを所有する人間の主体性によって、どうでもなると思われますが、しかし実際には、財産によって人間の主体性が曲げられる場合が多いのでしょう。財産は人間をその奴隷にする力を持っているようです。そのことを、この金持ちの男の行動から示されるように思います。

・それは、常に私たちが考えておかなければならないことではないでしょうか。といいますのは、ここに来ています私たちの多くは、現代の資本主義社会の中で生きていて、あの「貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」というイエスの言葉を、当時それを聞いた人々と同じような貧しさの中にあって聞いているのではないからです。当時イエスの時代の社会層から言えば、イエスの周りに集まって、この言葉を聞いた人々の多くは底辺の人たちだったと思われます。私たちは、大財閥でも、大金持ちでもないかも知れませんが、イエスの言う「貧しい者」ではないでしょう。小市民的な生活をしている私たちは、わずかであっても財産(貯蓄)を持っています。資本主義社会ではある程度の財産がないと、福祉の世話にならないと、生きられないからです。その意味で、私たちは何時も財産(富)の誘惑の中で生活している者であります。この金持ちの男の問題は、実に私たち自身の問題でもあります。

・さて、イエスはこの金持ちの男に対して、どのような態度で接しられたのでしょうか。21節を見ますと、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。イエスはご自身の前に立っている思い詰めた金持ちの男の人を静かに見ておられます。その視線は、非難や抗議の視線ではありません。「慈しみ」の視線でありました。イエスはファリサイ人、律法学者や当時の支配者たちに向けられた強い抗議の視線を、この金持ちの男に対しては向けていません。恐らく、この男の財産は、今日の資本家が労働者を搾取して築き上げた富ではなく、先祖から受け継がれたものでしょう。イエスのこの男に向けられた「慈しみ」の視線には、色々な意味が込められていたのではないかと思います。

・.ぅ┘垢琉Α↓∨糎韻悗醗悊出そうとする眼差し。今までの生活に固執するのではなく、新しい生活へと出発するように。深い悲しみの眼差し。

・もしこの金持ちの男が、彼の財産にではなく、神に目を注いでいたとしたら、彼は今のような悩みを持たないですんだでしょう。しかし、彼にはそのような可能性が与えられていながら、彼はその可能性にかけることはできませんでした。自らそれを閉ざしてしまいました。イエスの悲しみは、そのような金持ちの男に対する悲しみです。私たちは、この金持ちの男と全く同じ問題を持っている者です。それ故、イエスの金持ちの男に対する視線は、私たちに対する視線でもあります。

・26節、「それでは、だれが救われるのだろうか」と、弟子たちは、イエスの言葉に驚いて(24節)、互いに言ったとあります(26節)。ここの弟子たちの驚きには、それなりの理由がありました。イエスが、「財産のある者が神の国入るのは、なんと難しいことか」と言われたとき、イエスは当時人々が受け入れていたユダヤ人の一般的な基準を、まったく引っ繰り返してしまわれたからです。一般的なユダヤ人の道徳は単純でした。繁栄は神の好意のしるしです。もしある人が富み、繁栄しているなら、人々は神が彼を尊び、祝福されているに違いないと信じていました。財産は人格のすぐれていること、神に愛されていることの証明だったからです。詩人はそれを要約して、「若いときも老いた今も、わたしは見ていない。主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを」(詩編37:25)と言っています。今、私たちは、このようなことを信じてはいませんが、これが当時のユダヤ人の見解でありました。ですから、弟子たちが驚いたのも不思議ではありません。彼らは人が富めば富むほど、神の国に入ることが確実になると議論していたのでしょう。

・当時ユダヤ人一般が富に対して、このように見ていた時に、イエスは鋭く富の危険を見抜いていたのです。繁栄が神の祝福だと考えられている中で、繁栄や物質的なものに内在する危険を、イエスははっきりと見ていたということは驚くべきことです。

・今、私たちは経済的・物質的繁栄がその代償として残したさまざまな矛盾に苦しんでいます。けれども、未だ根本的な方向転換には至っていません。そういう私たちの状況をふりかえるとき、既にに2000年前にイエスがこのように富の危険性を見抜いていたということの驚きが、さらに大きなものとならざるを得ません。考えてみれば、産業革命以後の世界の歴史は、繁栄を求め、物質文明を謳歌してきたのではないでしょうか。その行き詰まり現象が、今日至るところに現れています。そういう世界史的な状況を踏まえて見ても、このイエスの認識は驚きであり、かつ今こそ真実に私たちが耳を傾けるべき言葉ではないでしょうか。

・「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25節)。
  では一体、富の危険とは、どのようなものでしょうか。

・(質的な所有物は人の心をこの世に固定させます。彼はこの世に大きな利害関係を持ち、この世に大きな関心を持つので、それらを越えて考えることは困難になります。また、彼にとって、それを全く捨てることは特別に困難です。ある外国の人が有名な城と美しい庭園を案内されました。それを全部見終えた後で、この人は友人を顧みて言いました。「ここには死ぬことを困難にするものがある」と。所有物の危険なのは、それが人々の思想と関心とをこの世に固定させるからです。この金持ちの男は、永遠の命を求めて、イエスのところに来ました。彼はイエスの前に立って、永遠の命を受けるにはどうしたらよいのかと問うたとき、彼は神の国の入り口にいたのです。

・∩瓦討硫礎佑魏然福紛癲砲嚢佑─金以外の価値あるものがあること、金で買うことができない尊いものがあることを忘れさせてしまいます。

・6盪?繊繁栄は、非常にたやすく人を傲慢・高慢・自己満足・世俗的にします。本来財産を多く与えられているということは、それだけ恵みの管理者として神と隣人に対する責任が大きいとういことです。

・自分自身とその財産に依存するものは、決して永遠の命に与ることはできません。永遠の命とは永遠に意味ある生です。金持ちの男は神のみ心を生きていたイエスと共に一歩踏み出すことが求められたのです。永遠の命とは所有物ではないからです。イエスに信頼してイエスと共に生きる生そのものが永遠に意味あることではないでしょうか。「幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」のです。しかし、私たちの中でそのことが起こるのは、見えない神による奇蹟なのでしょう。自分の出来ることはなしつつ、祈りつつ、神を待ちつつ、永遠の命に連なる生を生きていけたら幸いです。