なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(41)

     マルコ福音書による説教(41) マルコによる福音書10:13-16、
         
・マルコによる福音書10章13-16節は、その前にあるファリサイ人とイエスとの間になされた離婚問答に続いて起こった出来事として記されています。「イエスに触れていただくために、人々は子供たちを連れてきた。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」。

・弟子たちは、ただいたずらに幼な子をイエスのところに連れてきた人々をたしなめたというのではなく、イエスの受難の切迫を感じて、わずらわしさからイエスを守ろうとしたのではないかと思います。しかし、その弟子たちのある種の思いやりは、イエスの志とイエスの本当の思いを理解して上での思いではありませんでした。イエスは、幼な子を自分のところに連れてきた人々をたしなめた弟子たちに、「憤り」ました。この「憤る」という言葉は、マタイやルカの同じ記事のところにはありません。マタイでは(19:13-15)、「しかし、イエスは言われた」となっています。ルカ(18:15-17)では、「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた」となっています。このマルコだけにある「憤る」ということばは、元来「非常に悲しむ」という言葉だったようです。ですから、この弟子たちへのイエスの憤りには、無理解な弟子たちへの悲しみがこめられているものと考えられます。

・これが状況を説明しているところです。この状況説明に続いて、イエスは、「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」と語られたというのです。

・この所は、10:17-22に記されています、「金持ちの男(いわゆる富める青年)の物語」と、10:21-31に出てきます神の国に入ることの困難さをめぐってなされた弟子たちとイエスとの問答とのつながりの中で、読まれなければならないように思われます。特に「幼な子」に対して「金持ちの男(富める青年=ひとりの人)」が対照的な例として出てきます。そして全体として、イエスに従うということは、どのようなことなのかが、「神の国に入る」こととの関連において、弟子たちに向けて語られているのです。

・イエスに従う弟子たちは「幼な子」のようでなければならないことが、この箇所の中心点です。ここでは「幼な子」が比喩として用いられていますが、どのような意味で用いられえいるのでしょうか。「幼な子」は、弱さ未熟さ(不完全さ)を意味することもありますが、ここで比喩として用いられている意味としては、全く他者としての両親や大人に依存することによってしか、その存在を確保し得ない、その「小ささ」「無力さ」にあるように思われます。

・この世の現実生活において、「小ささ」「無力さ」は、むしろ否定的なものとして考えられるのではないでしょうか。「何も出来ぬ存在」「自分からは何も差し出すことが出来ない者」は、業績を重んじる社会の中では、全く評価されません。今は何も出来ないけれども、この子供たちが大人になった時に、この社会を担う者に成長するのだから、子供は社会の宝である、という風に。しかし、ここで「幼な子のよう」でなければならないと言われるのは、そのような幼な子の将来性に注目しているからではありません。幼な子はその小ささ、無力さにも拘らず、何とのびやかに、美しい笑顔を振り撒いてくれることでしょうか。小さく、無力であるがゆえに、それは、両親が幼な子に向けてなす全ての配慮を無心に賜物として受け取って、生きているのです。

・「神の国は、単純に幼な子のような者、すなわち、それを純粋に賜物として受け取る者に所属する」(荒井)という意味に、14節後半「神の国はこのような者たちのものである」は、理解されるのです。それ故、「神の国に入るのに必要なことは、幼な子のようにこれを受け入れること、つまり、これを当然の権利として要求するのではなく、父の賜物として単純にいただくことである」ということになります(15節)。「ここでは、神の国は、人々が幼な子のように受け入れ、歓迎する神の贈り物として考えられています」。幼な子には、あれか、これかという逡巡はありません。一つのことにその心をかけていきます。この次に学ぶ「富める青年」のように「永遠の生命も財産も」というように、二つのものを追い求めることは、幼な子にはないからです。

・イエスにおいて、神の国は、古き世界は終わりを告げ、神の支配が成就するという待望との関連の中でとらえられています。「今や時はきている。神の国は出現している。終わりは来ている」。それは「神の国がすでに現在であるということを意味するのではない。しかし、それがまさに発端に立っていることを告げている」のです。そのような神の国との関わりにおいて、「幼な子のように神の国を受け入れる者」の具体的なイメ-ジが、イエスご自身において与えられているのではないであしょうか。

・「真に神とその支配を欲するか、それとも世とその宝とを欲するか」という、二者択一がイエスによって突き付けられえいるのです。イエスが「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と言われて幼子という幼児性は、(単純に、神とその支配に、その心をかけること) 単なる「小ささ、無力さ」ではありません。一つのことに心をかけることは、力を生み出します。悪しき力も又、そのようにして生まれますが。権力に自分を売り渡した人間が、恐ろしい力を発揮する場合が、しばしばあります。イエスの幼児性も力です。しかし、それは暴力的な力ではありません。人格的な、ただ神の造られた子どもとしての愛と自由に生きる力です。

・神と神の支配を幼な子のように受け入れる者は、この世にあって、どのような者として立つのでしょうか? これもまた、イエスの姿から学ぶことができます。イエスは決して変人奇人的な振舞いをした方ではありません。ごく当たり前の人間として、例えばマタイ11:19では、「大食漢で、大酒飲み」だと言われて、イエスが非難されたらしいことが記されています。当時の正統的な人間像からすれば、随分型破りのところがあったらしいのです。宗教的な敬虔な清潔さという点では、むしろ、ファリサイ人、律法学者のような人々の方が、敬虔な人間の部類に入っていたと思われます。イエスの振舞いの特徴を上げれば、当時の宗教的、政治的行動において、大変自由であったということでしょう。その上、イエスの姿には、不屈なものが感じられます。当時の権力者に対しても、決して彼らに屈しないものをもっておられました。それは、古き時の支配下にあるものとして、すでに新しい神による支配のはじまりの中にいたイエスの自意識から来ているのではないでしょうか。

・「幼な子のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、弟子たちに語られたイエスは、祝福をもとめて連れてこられた幼な子たちを「抱き上げ、手をおいて祝福され」ました。大人である私たちは、もう幼な子に帰ることは出来ないのでしょうか。幼な子のあの「小さな、無力さ」の中にある、ただひたすら父に、母に信頼する一途さ、謙遜・信頼・従順。徹底的に受け身でありながら、委ねの中で生きる自由さ。私たち大人は、あまりにもこの世の囚われの中にある者として、この世の知恵を身につけ、神の国を喪失しているのではないでしょうか。偉くなることに、心を用いすぎて。

・そういう私たちに対して、あのように生き、あのように死に、あのように甦がえったイエスは、もう一度、私たちをして、幼な子のように、神と隣人の前に歩む道を、私たちのために開かれたのではないでしょうか。