なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

「恐れることはない」(イースター説教)

     「恐れることはない」マタイ28:1-10、復活節礼拝        2016年3月27日

・今日はイースターです。十字架につけられ殺されて葬られましたイエスが、甦った日です。このイース

ーの出来事によって、イエスを信じて生きる人々の群れが誕生しました。聖霊降臨は、甦って今も私たちと

共にいてくださるイエスを信じて、私たちが生きいけるようにしてくださる神の霊です。命の風です。

・今日はマタイによる福音書のイエスの復活の記事から、最初にイエスの復活の証人となったマグダラのマ

リアともう一人のマリアのことを思いめぐらし、よみがえりのイエスを信じて生きていくということは、ど

ういうことなのかを想い起こしたいと思います。

・時々、神がいるなら、なぜ次から次に悲しい事件が起こるのか? この世の中がよくならないのか?とい

う問いを、キリスト者である方からも受けることがあります。以前名古屋の教会にいた時に、何人かの青年

が教会に来て、「神が全知全能ならば、なぜこの世に不幸があるのか」という質問をしてきたことがありま

す。後で気が付いたのですが、当時大学には統一教会の原理運動が入っていましたので、原理に影響された

青年たちが、統一協会から派遣されて、教会にやって来て、そのような質問を浴びせて行ったのではないか

と思います。こういう問いをされる方にとっては、神は、ちょっと古い譬えになりますが、仮面ライダー

水戸黄門のようなオールマイティーの存在に考えられているように思います。そういうオールマイティの神

を期待している信仰であるとすれば、一向にオールマイティーとしての神は現れませんから、神に信頼して

生きることも難しいだろうと思います。

キリスト者にとっての神信仰は、十字架の死からイエスを甦らせてくださった、イエスが「アッバ、父よ」

と祈り、イエスが信じた神を信じる信仰ではないでしょうか。十字架上のイエスが、神に向かって「わが神、

わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫んだ神です。

・このイエスが叫び祈った神は、十字架からイエスを引き剥がして助けてくださる神ではありません。むし

ろ、十字架の苦しみをイエスと共になっている神です。その意味では、神はスーパーマンではなくある意味

では無力な、人となった神です。

・「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と叫ぶイエスと共におられる神です。

そして十字架につけられて殺され、葬られたイエスと共に、使徒信条によれば、「陰府に」まで降られた神

です。そのような神は人間の絶望をご自身の絶望として引き受けてくださっている神ではないでしょうか。

・イエスが十字架につけられ殺されて、墓に埋葬されてから、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、

マグダラのマリアともう一人のマリアの二人が、イエスの埋葬された墓を見に来ました。マルコ福音書では

香油を用意して女たちは墓に来たと言われていますが、マタイ福音書では、ただ墓に来たとだけ記していま

す。マタイ福音書では、このイエス復活の記事の前に、イエスの遺体を弟子たちが盗み出して、復活したと

言いふらすのを恐れて、ファリサイ派の人々はピラトに願って、イエスの葬られた墓の前に番兵を置いたと

記されています(27:62-66)。しかし、二人の女性が墓に来た時、これもマタイ福音書にしか記されていな

いのですが、「大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座っ

たのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上

がり、死人のようになった」(2-4節)と言われています。「天使は婦人たちに言った。恐れることはない。

・・・・」(5-7節)。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び(「恐れと大きな喜びとをもって」)、急いで墓

を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8節)と記されています。

・「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』(喜びあれ、平安あれ)と言われたので、婦人た

ちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、

わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」(9-10節)と。

二人のマリアは、天地と復活したイエスから「恐れることはない」と二度呼び掛けられているのです。二人

は、十字架にかかって殺されたイエスが甦ったことを信じて、「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち

去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と言われています。この女たちの姿にこそ、私たち信仰者

の姿があるのではないでしょうか。

・この世に生きている以上、私たちは「恐れ」から自由になることはできません。けれども、復活のイエス

によって、「恐れ」と共に「大きな喜び」が私たちには約束されているのです。復活の主イエスがこの世に

あって恐れの只中にある私たちに「恐れることはない(喜びあれ、平安あれ)」と言ってくださるからです。

ガリラヤからイエスに従ってきた弟子たちや群衆は、イエスを十字架にかけて殺した権力者たちを恐れて、

エスを裏切ったり、イエスの下から逃げ去ってしまいました。自分たちもまた、イエスのように十字架に

架けられて殺されてしまうのを恐れたからです。この恐れから解放されない限り、ガリラヤにおいてイエス

が宣べ伝えた神の国の到来を信じて、イエスに従った弟子たちや群衆が、これからもその道を生きていくこ

とは不可能だったでしょう。十字架に架けられ殺されて、イエスがいなってしまったのですから。

・けれども、聖書はその十字架に架けられ殺されたイエスが復活して、霊として弟子たちや群衆と共にある

と告げているのです。ガリラヤからエルサレムのコルゴダまでは、肉のイエスが弟子たちや群衆の先頭に立

って、神の国の到来を告げ、この世にあって神に国にふさわしく歩んできたのです。ジャン・バニエが書い

た『きいてみたいな イエスさまのおはなし』という、こういう(実際の本を示す)本があります。イエス

の言葉とそれ対応する絵が描かれている本です。その一節にこのようにイエスの言葉が記されています。

・「また、イエスさまの 声がきこえます“困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈り

したり できれば 近くで あなたの力を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たち

と こころをあわせて あなたの近くに ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと

 たすけて しゅくふくを おくってくださいますよ”」

ガリラヤからイエスに従ってきた弟子たちも群衆も、イエスのこのような声を聞いて、イエスと共に平和

をつくるために働いてきたのではないでしょうか。その道がイエスの十字架によって、ある意味で断たれて

しまったように思われます。弟子たちや群衆は、自分の死を恐れて、イエスを捨て去って逃げてしまったか

らです。このような自分かわいさにイエスを裏切り、イエスの下を逃げ去ってしまった弟子たちや群衆が、

復活したイエスに出会って、もう一度イエスの下に集まってやり直していく。それがイエスに従う者たちの

群れである教会の誕生なのです。

・私は、そのような復活の主イエスに従って歩み直す弟子たちや群衆の道を、『食材としての説教』の中に

あるイエスの復活についての説教では、箱根駅伝に譬えて「復路を生きる」としました。

箱根駅伝に譬えれば、イエスの十字架死と葬りまでの弟子たちや群衆の歩みは往路に譬えることができま

す。そこで一度終わります。イエスが死んで、弟子たちや群衆もそこで一度死んだのです。この世の権力に

よる暴力の恐ろしさのゆえに、自分かわいさでイエスを裏切り、逃げ去った弟子たちや群衆は、そこで一度

死んだのです。パウロはローマの信徒への手紙6章でこのように語っています。少し長くなりますが、その

個所を読んでみたいと思います。「・・・それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエス

結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼(バプテ

スマ)を受けたことを。わたしたちは洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、その死にあずか

るものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたし

たちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかる

ならば、その復活のすがたにもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけ

られたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ

者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きること

にもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知ってい

ます。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたので

あり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対し

て死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ6:3-11)。

・イエスを信じて生きる者は、イエスの十字架において自分自身の古い自己の死を経験し、イエスに結ばれ

て、神に対して生きているのです。けれども、私たちが肉体において存在する限り、古い自己が自分の中で

生き返ることはいつでも起こり得ることです。天使から「恐れることはない」と言われた婦人たちはが、

「恐れながらも大いに喜んだ」と言われていますが、この「恐れながらも大いに喜ぶ」という言葉の中に、

復活のイエスに従って復路を生きる信仰者のあり様が言い表されているのではないでしょうか。イエスの復

活に出会って、その喜びを胸に秘めながら、信仰者は悩み多いこの世を神に対して生きていくことが出来る

のではないでしょうか。

・同じ信仰の真実を、ヨハネ福音書の言葉で言いかえれば、このようになります。「あなたがたは世では苦

難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。そのような視座から、も

う一度ジャン・バニエの本のイエスの声に耳を傾けたいと思います。「また、イエスさまの 声がきこえま

す“困っている人、よわい人、くるしんでいる人のために お祈りしたり できれば 近くで あなたの力

を わけてあげましょうね。平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに 

ひとつづつ 平和をつくってくださいね 天の神さまが きっと たすけて しゅくふくを おくってくだ

さいますよ”」

・復活のイエスを信じて、「平和をつくるために はたらく人たちと こころをあわせて あなたの近くに 

ひとつづつ 平和をつくる」業に、それぞれの場で参与していくことができれば幸いに思います。くに ひと

つづつ 平和をつくる」業に、それぞれの場で参与していくことができれば幸いに思います。